
画像:Evan-Amos / Wikimedia Commons / Public Domain
どんな商品?
任天堂が1983年7月15日に発売した家庭用ゲーム機。カセットを差し替えて複数のゲームを遊べる仕組みを採用しました。
発売当時あなたは何歳?
「本体ではなく、ソフトで採算をとる」という発想
「ファミリーコンピュータ」の開発を率いた任天堂の上村雅之氏は、のちのインタビューで、開発にあたって「本体ではなく、ゲームソフトで採算をとる」という考え方を採用したと語っています。本体の価格を抑えてでも多くの家庭に普及させ、その後のソフト販売で事業を成り立たせるという、それまでの任天堂のおもちゃとは異なる商売の組み立て方でした。
「ゲーム&ウオッチの次」を求められた開発
開発のきっかけは、1981年11月、当時の任天堂社長・山内溥氏から上村氏へ直接かかってきた電話でした。上村氏のインタビューによれば、山内氏は「ゲーム&ウオッチの次を考えんとアカンわ」と伝え、さらに「3年間、保つようにしろ」と要求したといいます。上村氏の開発第二部は、業務用シューティングゲーム『レーダースコープ』の不振で大量の基板が売れ残り、次の仕事に着手できる状態にありました。
CPUには当時主流だった「Z80」ではなく、リコーがライセンスを得ていた「6502」が、コストと権利処理の両面から採用されました。あわせて搭載されたPPU(画像処理チップ)も高度な機能を持ち、シンプルなプログラムで滑らかな画面表示を可能にしていたといいます。
コントローラーと十字キーの誕生
当初のコントローラーは、業務用ゲーム機と同じジョイスティック(レバー)を本体に取り付ける案で検討が進んでいました。しかし固定方法や安全性の面で開発が難航していたところ、ゲーム&ウオッチの開発で多忙だった沢野貴夫氏が「レバーをやめて十字ボタンにすればよい」と提案したことが転機になったと、日経クロステックの記事で紹介されています。
十字ボタンはもともと、横井軍平氏がゲーム&ウオッチ版『ドンキーコング』のために考案した仕組みでした。携帯型のゲーム&ウオッチにはジョイスティックを搭載できず、試行錯誤の末にたどり着いた形だったといいます。沢野氏はこの十字ボタンがファミコンの試作機でも違和感なく操作できることを実際に示し、採用が決まりました。
コントローラーが2つになった経緯について上村氏は、当初は「本体の手前にコントローラが付いてる」一体型のジョイスティック案だったが、前社長と横井氏の異論で設計が変更され、2つの独立したコントローラーになったと振り返っています。十字ボタンの採用を最終的に決めたのは上村氏自身で、理由として「コストと使いやすさ、そして踏んだときにケガしないように、壊れにくいように」という点を挙げています。Ⅰコントローラーにはスタート・セレクトボタンが、Ⅱコントローラーにはマイク機能が備わっているなど、2つのコントローラーには役割の違いも持たせられていました。

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こだわりの素材と配色
本体の赤と白の配色は、当時の社長・山内氏が「この色や」と指定したもので、上村氏によればその赤は山内氏自身が身につけていたマフラーの色だったといいます。上村氏はこの配色の決定について「コストはまったく関係ない」とデザイン上の判断だったことを説明しています。
ボディには任天堂製品として初めてABS樹脂が採用され、プリント基板にも初めてガラスエポキシ両面基板が使われました。上村氏はこれらの部材について「超高いんです」と述べ、ファミコンが見た目以上に原価のかかった商品だったことを明かしています。

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発売直後のトラブルと立て直し
発売直後には、コントローラーのボタンが戻らなくなる、いわゆる「にじり押し」の不具合が発生しました。さらに『ベースボール』ではPPUの発熱によって内部のデータが消えてしまう問題も起こり、任天堂は出荷を一時的に停止し、すでに店頭に並んだ本体を回収する事態に至りました。上村氏はこのときの心境について「ファミコンは死んでしまうとまで思った」と振り返っています。
状況が好転したのは1984年1月末ごろで、営業担当から「売れてる」という報告を受けたことがきっかけだったといいます。この時期には客が「ファミコンが入荷したら売ってください」と指名買いするようになっていたといいます。
発売時のソフトとラインナップの広がり
1983年7月15日の発売と同時に発売されたソフトは、いずれもアーケードゲームとして稼働していた『ドンキーコング』『ドンキーコングJR.』『ポパイ』の3本でした。ROM(カセット)の製造を大手メーカーが軒並み断るなか、日本語ワープロ向けに大量の文字情報をROMへ搭載する技術を持っていた東芝が協力したことで、生産体制が整えられたと上村氏は語っています。
のちに発売された『スーパーマリオブラザーズ』のころには、すでに本体が400万台以上売れていたといいます。上村氏は同作について「女の子を巻き込んだ、初めてのゲームソフトと言ってもいいのではないか」と評価しており、ゲーム画面を見て「かわいい」という言葉が出てきたのもこの作品からだったと振り返っています。
新型機・販売実績とスーパーファミコンへ
1993年12月1日には、映像出力などを見直した新型機「HVC-101」(ニューファミコン)が、当初モデルよりも安い6,796円で発売されました。ファミコン用ソフトの発売は続き、最後の1本となったハドソンの『高橋名人の冒険島Ⅳ』は1994年6月24日に発売されています。
任天堂公式サイトによれば、ファミコンの累計販売台数は国内で1,935万台、世界全体では6,191万台にのぼり、対応ソフトの累計販売本数は5億本を超えたとされています。
その後、任天堂の据え置き型ゲーム機は1990年発売の「スーパーファミコン」に、携帯型のゲーム機としては1989年発売の「ゲームボーイ」に受け継がれていきました。カセットを差し替えて遊ぶという基本の仕組みは、これらの後継機にも共通しています。
発売当時の値段は14,800円
1983年7月15日に発売されたファミリーコンピュータの本体価格は14,800円でした。当時の家庭用ゲーム機としては手頃な水準で、この「安さ」がのちの爆発的な普及を後押しした要因のひとつだったと報じられています。
本体だけを見れば決して高価ではありませんが、記事内で紹介したように上村雅之氏は「超高いんです」とABS樹脂やガラスエポキシ基板のコストについて語っており、値段の裏には採算度外視の作り込みがあったことがうかがえます。安く見えて、実は「お買い得」だった―そんな一台だったのかもしれません。
2016年、手のひらサイズで甦った「ニンテンドークラシックミニ」
発売から33年後の2016年11月10日、任天堂は本体サイズを約60%に縮小した「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」を発売しました。価格は5,980円(税別)で、往年の30タイトルがあらかじめ収録され、カセットを差し替えなくても遊べる仕様になっています。
ただしカセットを実際に差し込んで遊ぶことはできず、ダウンロードでのソフト追加もできない、あくまで「収録タイトルを楽しむための復刻版」という位置づけです。十字キーを握った手には、33年の時を超えても変わらない懐かしさが残っていました。
