縁日の屋台とは?射的とりんご飴、夜店に並んだ昭和の記憶

公開日:2026年9月6日

提灯が並ぶ夜店を歩く人々のイメージ

※AIによるイメージ画像です

提灯(ちょうちん)の明かりに照らされた境内(けいだい)に、射的やりんご飴、金魚すくいの屋台がずらりと並ぶ——そんな縁日の夜を覚えていますか。定番の屋台の中には、実はアメリカ生まれのお菓子や、江戸時代からの遊びが混ざり合っています。

神社やお寺のお祭りにあわせて出店する「屋台」という商売が、どのように成り立ち、どんな屋台が親しまれてきたのかを、資料をもとにたどります。

縁日の屋台とは?神社仏閣の祭礼にあわせて出る露店(ろてん)

縁日とは、神社やお寺の祭礼・行事が行われる日のことで、この日にあわせて境内や参道に食べ物・遊びの露店(ろてん)が並ぶのが「屋台」です。かつては香具師(やし)と呼ばれる商売人たちが各地の祭りを渡り歩き、簡易な組み立て式の店を出していたと伝えられています。

Wikipediaの解説によれば、「香具師」という職業名が文書に現れた最古の記録は1735年(享保20年)の『古事類苑』にある「香具師一件」で、薬売りや曲鞠(きょくまり)、果物売りなど13種の商売・遊芸人を指す「十三香具師」として記録されているとされています。明治以降は「的屋(てきや)」「三寸(さんずん)」とも呼ばれるようになり、各地の祭りを渡り歩く露店商人の組織として、独自の仲間内の秩序を保ちながら活動を続けてきたといいます。江戸時代からすでに13種類もの商売・遊芸に分かれていたという事実は、屋台の担い手たちの世界がそれだけ多様だったことを示しています。

出典:Wikipedia「香具師」

なぜ「縁日」というのか。神仏との「有縁の日」

コトバンクの解説によれば、「縁日」という言葉は、神仏と人が特別な縁で結ばれる「有縁の日」を略した言葉とされ、平安時代の『今昔物語集』には「今日は十八日、観音の御縁日也」という記述が残っているといいます。平安時代には、阿弥陀は15日、観音は18日、地蔵は24日など、それぞれの仏に定められた日にお参りすると、通常よりも大きなご利益が得られると信じられていました。

同解説によれば、中世以降は参詣者を相手にした見世物や物売りが参道に並ぶようになり、江戸時代には縁日が「市が立ち、夜店が出るレクリエーションの日」へと民俗化していったとされています。浅草寺の「四万六千日」の縁日はその代表例として知られています。もともとは神仏にお参りする特別な日だった縁日が、参道の商売とともに、庶民が楽しみにする娯楽の日へと少しずつ姿を変えていったことがわかります。

出典:コトバンク「縁日」

縁日と屋台が結びついた背景

飲食業界用語辞典サイトの解説では、屋台のような商売は江戸時代の享保期(きょうほうき)(1716〜1736年)頃に現れ始め、天明期(てんめいき)(1781〜1789年)以降に広がっていったという説明がされています。

屋台には、天秤棒を担いで売り歩く「振り売り」と、簡易な店構えで一か所にとどまる「立ち売り」という2つの形式があったとされ、天ぷらや豆腐田楽、立ち食いそばなどが当時を代表する屋台料理だったという説明もあります。

ただしこの内容は業界系の解説サイトによるものであり、国立国会図書館・博物館・自治体等、公的機関による直接の裏付けは今回確認できていません。屋台の起源を確定した歴史として断定はせず、確認できた範囲の一つの説明として紹介するにとどめています。

出典:ビジプリ飲食・飲食用語辞典「江戸時代の屋台文化とは?」

昭和の縁日を彩った、射的とりんご飴

昭和の時代、縁日といえば射的、りんご飴、金魚すくい、水風船、綿あめといった屋台が定番でした。コルク銃で景品を狙う射的や、真っ赤なりんご飴を頬張りながら夜店をひやかして歩く時間は、子どもにとって特別な楽しみだったのではないでしょうか。夜の境内に並ぶ提灯の明かりと、屋台から漂う香りが一体になった雰囲気そのものが、縁日の記憶として残っている人も多いはずです。

Wikipediaの解説によれば、射的のもとになった遊びは平安時代に宮廷で行われていた「射礼(じゃらい)」で、貴族の間では賞品をかけた「賭射(のりゆみ)」という形式もあったとされています。江戸時代以降、この遊びが祭りの市や縁日でも行われるようになり、当時は「的矢(まとや)」と呼ばれていたといいます。同解説では、この「的矢」という呼び名が、のちの露天商を指す「的屋(てきや)」という言葉につながったという説明も紹介されています。

出典:Wikipedia「射的」

縁日の射的で狙いを定める子どもの手元のイメージ
※当時の雰囲気をもとにAIで作成したイメージ画像です

りんご飴は、実はアメリカ生まれ

Wikipediaの解説によれば、りんご飴は1908年、アメリカ・ニューアークの菓子職人ウィリアム・コルブ氏が、クリスマス商戦向けのレッドシナモン飴を作る途中でりんごを浸してディスプレイしたのが始まりとされています。最初は1個5セントで販売され、そこからアメリカ国内に広まっていったといいます。

同解説によれば、日本でりんご飴が普及したのは戦後の1960年代で、太平洋戦争中から続いていた砂糖の配給制が1952年に廃止され、1963年に輸入制限が撤廃されたことがきっかけとされています。砂糖という原料そのものが自由に使えるようになったことで、ようやく縁日の屋台にりんご飴が並ぶようになったという経緯は、甘いお菓子一つをとっても、当時の経済統制の影響を受けていたことを物語っています。今では当たり前の縁日の光景も、平和な日常が戻ってきてはじめて成立したものだったことになります。

出典:Wikipedia「りんご飴」

わたあめも、金魚すくいも、実は舶来品や輸入文化だった

Wikipediaの解説によれば、綿菓子(わたあめ)の電動製造機は1897年、アメリカ・テネシー州の菓子製造業者ジョン・C・ウォートン氏と歯科医師ウィリアム・モリソン氏によって発明されたとされています。1904年のセントルイス世界博覧会で「フェアリー・フロス(天使の綿毛)」という名前で出展され、1箱25セントで6万8655箱も売れる人気商品になったといいます。砂糖を機械で溶かして糸状にするというアイデアそのものが、当時の博覧会で世界中の来場者を驚かせるほどの新しさを持っていたことがうかがえます。

同解説によれば、日本には明治時代後半から大正時代にかけて伝わり、綿菓子製造機はたちまち全国各地へ広まったとされ、当時は「電気飴」と呼ばれた時期もあり、カルメ焼きとともに子どもたちの人気をさらったといいます。

一方、Wikipediaの解説によれば、金魚すくいは江戸時代の浮世絵に、子どもが釣り糸や投網、手づかみで金魚をつかまえる様子が描かれており、これが起源とされています。当時は現在おなじみの「ポイ」を使う方式ではなく、大正時代になってようやくポイを使った金魚すくいが登場し、その後主流になっていったとされています。手づかみや投網から、和紙を貼った枠でそっとすくうポイへと道具が変わったことで、破れるかどうかの緊張感という、今につながる遊び方の面白さが生まれたと考えられます。りんご飴・わたあめ・金魚すくいという縁日の代表的な屋台は、いずれも今の形になるまでに、海外からの伝来や道具の発明といった、それぞれ異なる転機を経てきたことがわかります。

出典:Wikipedia「綿菓子」/Wikipedia「金魚すくい」

もう一つの起源。戦後の闇市から広がった屋台

Weblio辞書の解説によれば、江戸時代に生まれた屋台文化とは別に、第二次世界大戦後には闇市の屋台が各地に広がっていったとされています。江戸の屋台がどちらかといえば娯楽・食の楽しみとして発展したのに対し、戦後の屋台には、まったく異なる社会的背景があったことがうかがえます。

屋台の歴史を紹介するoishiiplusの記事によれば、1945年の終戦後、都市部が焼け野原となる中で、戦災で店舗を失った人々や海外からの引揚者、戦争未亡人たちが、生活の糧を得るために闇市で屋台営業を始めたとされています。同記事は、こうした屋台が人々の空腹を満たすと同時に復興のエネルギーを支え、「現在の屋台文化の直接的なルーツ」になったとも紹介しています。ただし、この具体的な経緯を裏付ける公的機関・学術機関の一次資料には今回到達できておらず、業界系の解説記事による説明として紹介するにとどめます。江戸時代の縁日の屋台と、戦後の闇市から広がった屋台という、起源も背景も異なる2つの流れが、今では同じ「屋台」という言葉で呼ばれていることになります。

出典:Weblio辞書「屋台」/oishiiplus「屋台の歴史 ― 日本のファストフードの原点」

1964年の東京オリンピックを機に、屋台が減っていった地域も

Wikipediaの解説によれば、屋台や露店は食品衛生法・道路交通法などの法律によって規制を受ける対象であり、1964年の東京オリンピックを機に、非衛生的とされた屋台の一斉排除が全国的に行われたと紹介されています。国際的な行事を控え、街並みを整えようとする動きの中で、縁日以外の場に出ていた常設の屋台の多くが姿を消していったと考えられます。

一方で、同記事の「福岡市における行政の対応」の節(年ごとに出典が付された記述)によれば、福岡の屋台は1962年に営業許可基準が定められたのち、1973年には屋台側が県警と交渉して名義変更を認めさせるなど、組合を通じた粘り強い交渉によって営業を続けてきたとされています。全国的には規制で姿を消していった常設の屋台が、地域によっては組合活動という形で「生活権」を守り、現在まで続いているというのは、同じ「屋台」という商売の中にある大きな地域差を示す例といえます。

福岡市観光情報サイト「よかなび」によれば、福岡の屋台は1960年代には400軒以上あったものの、県警による「原則一代限り」という営業許可の方針によって新規参入ができず、2010年には155軒まで減少していたといいます。組合の交渉によって営業自体は続いてきた一方で、担い手の高齢化とともに、屋台の数そのものは着実に減っていく構造的な問題を抱えていたことがわかります。

同サイトによれば、2013年7月に施行された「福岡市屋台基本条例」では、市長が場所を指定して新規営業希望者を公募できる仕組みが導入され、2016年の第1回公募から2020年代までに50軒以上の新しい屋台が誕生し、現在は105軒のうち41軒が公募による屋台になっているとされています。「一代限り」で減り続けるしかなかった屋台が、行政による制度設計によって新規参入の道を再び開かれ、全国でも珍しく100軒超の規模を維持する存在へと復活したことがわかります。

出典:Wikipedia「屋台」(福岡市の行政対応の節は年ごとに脚注付き)/福岡市観光情報サイト よかなび「屋台基本条例制定からの10年、屋台消滅の危機からの復活!」

今も続く、お祭りの風物詩

近年は屋台の数が減った地域もあるといわれますが、夏祭りや秋祭りの季節になると、今でも各地の神社仏閣で屋台が立ち並びます。射的やりんご飴といった定番の屋台に加え、近年ならではの新しい屋台グルメも登場していますが、夜店を見て回るというお祭りの楽しみ方そのものは、今も昔も変わっていません。

あわせて読みたい

同じ時代の夜のお祭りの記憶は街頭紙芝居が来た日や、昭和の駄菓子屋でもあわせて確認できます。

同じ時代の街頭パフォーマンスの記憶はちんどん屋とは?でも確認できます。

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出典・注意事項

本ページは、飲食業界用語辞典サイトの解説記事をもとに構成しています。屋台文化の起源については、公的機関・博物館等の一次資料には今回到達できておらず、業界系の解説記事による一つの説明として紹介するにとどめ、確定した歴史としては扱っていません。

ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。