デパートの屋上遊園地はなぜ広がり、減っていった?家族の遊び場だった時代
公開日:2026年9月7日 更新日:2026年9月12日

※AIによるイメージ画像です
観覧車やミニ豆汽車が並び、休日には家族連れで賑わっていたデパートの屋上遊園地。
百貨店の屋上になぜ遊び場が作られ、なぜ少しずつ姿を減らしていったのかをたどります。
デパートの屋上遊園地とは?家族連れを集めた遊び場
屋上といえば、今なら屋外広告塔か、せいぜい休憩用のベンチがあるくらいでしょうか。かつてはそこに観覧車が回っていた、といったら意外に思う人もいるかもしれません。デパートの屋上遊園地とは、百貨店の建物最上階にあたる屋上スペースに設けられた、観覧車やミニ豆汽車、遊具などを備えた遊び場です。買い物のついでに子どもを遊ばせられる場所として、休日には多くの家族連れで賑わいました。全盛期は昭和30年代初めから昭和40年代半ばにかけてとされ、多くの百貨店がこぞって屋上に何らかの遊び場を設けていた時期がありました。当時は今のような大型テーマパークがまだ少なく、屋上遊園地は都市部の子どもたちにとって身近で貴重な遊び場のひとつでした。
ただし、屋上遊園地そのものの起源は、この全盛期よりもさらにさかのぼります。松坂屋自身の史料室が公開する社史資料によれば、同店の前身にあたる「いとう呉服店」が1910年(明治43年)に屋上へブランコを設置したのが始まりとされ、1925年(大正14年)に「松坂屋」へ商号を統一した際、名古屋店の屋上には展望台・動物園・水族館・こども遊園までが設けられたといいます。「屋上遊園地は戦後・高度成長期の風物詩」というイメージが強いかもしれませんが、少なくとも一部の百貨店では、それより30年以上前から屋上に遊び場を作るという発想自体が存在していたことになります。この1910年の逸話は、松坂屋自身がまとめた社史にもとづくもので、第三者による独立した裏付けまでは確認できていません。
「日本最古」を名乗る屋上遊園地は、実はひとつではありません。J-CASTニュースの報道によれば、東京の松屋浅草にあった屋上遊園地「プレイランド」は1931年の開業で「日本最古の遊園地」と紹介されており、2010年5月末の閉鎖まで約80年にわたって営業を続けていました。一方、松坂屋の社史では、それより6年早い1925年の時点で名古屋店の屋上に「こども遊園」が設けられたとされています。「ブランコ1つを置いた最初」を最古とするか、「こども遊園という形の最初」とするか、「プレイランドのような独立した遊戯施設としての開業」を最古とするかで、答えは変わってくることになります。それぞれの出典がどの言葉で何を指しているかによって「最古」の中身が違う、というのが実際のところのようです。
出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第27回「百貨店ある記 ~買うときめき、めぐる楽しみ~」/松坂屋史料室「Vol.41 松坂屋・屋上遊園の歴史」/J-CASTニュース「『元祖』屋上遊園地が閉鎖 松屋浅草」
なぜ屋上に遊び場が作られたのか
屋上遊園地が広がった背景には、当時は今と比べて子どもの娯楽が乏しく、デパートにとって屋上遊園地が重要な集客装置だったという事情があります。
1955年(昭和30年)には日本橋三越の屋上でお猿の電車「ニコニコ号」が、1958年(昭和33年)にはディズニーランドの展示が催されるなど、各百貨店が趣向を凝らした催しを競い合っていたとされています。
百貨店の鉄骨鉄筋コンクリート化が進むと、屋上には遊園地だけでなくローラースケート場やイベント用ステージ、音楽堂なども作られ、水着ショーや新作映画の発表会、新人歌手のキャンペーンなどが催されることもありました。今でいえば、ショッピングモールのイベントスペースが担っている役割の多くを、当時は百貨店の屋上が一手に引き受けていた、というイメージに近いかもしれません。屋上は単なる遊び場ではなく、百貨店にとっての「もうひとつの一等地」だったことになります。
観覧車と豆汽車のある屋上の風景
屋上遊園地の主役は、小さな観覧車やミニ豆汽車といった、子ども向けの遊具でした。屋上という限られたスペースに合わせて作られた、コンパクトながらも本格的な遊具の数々は、地上の大きな遊園地とはまた違った魅力を持っていました。建物の屋上という、本来なら配管や貯水槽が並んでいそうな場所に観覧車が回っている——考えてみると、なかなか大胆な発想です。
買い物を終えた家族が最後に屋上へ立ち寄り、子どもを遊ばせてから帰る。屋上遊園地は、買い物という一つの外出の締めくくりとして位置づけられていた場所だったといえます。
買い物と遊びの両方を一つの建物の中で完結できる場所として、屋上遊園地は子どもだけでなく、大人にとっても便利な存在でした。
中国新聞デジタルの記事によれば、広島の福屋八丁堀本店は、1938年の本店建設時から屋上に遊具を備えていたといい、メリーゴーラウンド・回転自動車・子供汽車が並び、1956年にはロープウエーも登場しました。同じ広島市内の天満屋広島店も、1961年10月に開業しています。屋上遊園地は各店が一斉に始めたわけではなく、店ごとに異なる時期から少しずつ広がっていったことがうかがえます。

なぜ減っていったのか
屋上遊園地は昭和40年代半ばをピークに、その後少しずつ数を減らしていったとされています。郊外型の大規模テーマパークや遊園地が各地に登場したことで、屋上の小さな遊具では子どもたちの興味を引きにくくなったこと、老朽化した遊具の維持・更新にかかる費用などが、屋上遊園地が姿を減らしていった背景にあると考えられます。
同じ時期、屋上という空間の使い方には、安全面での条件も存在していました。京都市消防局の要綱によれば、百貨店等の屋上広場は、避難の用に供するための空地を直下階から5以内の階のうち床面積が最大の階の2分の1以上確保することが求められており、既に遊戯施設が設置されている場合も、避難橋や避難器具の設置など安全面の方策が求められるとされています。これは京都市という一地方の要綱であり全国一律の規定ではなく、この要綱自体が屋上遊園地の閉鎖・減少を直接説明しているわけでもありません。ただ、屋上を遊び場として使い続けるには、安全面の条件とも向き合う必要があったことがうかがえます。
同じ時期に進んでいたのが、百貨店業界全体の構造的な変化です。朝日学情ナビの記事によれば、百貨店業界の売上高は1991年の10兆円弱から2018年には5兆8,870億円まで落ち込み、中流家庭のデパート離れが進む一方で、スーパー・コンビニエンスストア・ネット通販といった新しい競合が台頭していったといいます。屋上遊園地という個別の施設だけの話ではなく、百貨店という業態そのものの立ち位置が変わっていった時期と重なっている、ということになります。
屋上を安全に使い続けるための条件と、百貨店という業態そのものの地盤沈下——性質の異なるこの2つの動きが同じ時期に重なっていたことは、少なくとも確認できます。屋上遊園地の減少をそのどちらか一方だけで説明できるとまでは、今回確認できた資料の範囲ではいえません。
この経緯を、1つの店の歩みとして具体的にたどれる例もあります。中国新聞デジタルの記事によれば、福屋八丁堀本店は1997年7月、5,000万円を投じてメリーゴーラウンドを目玉に屋上をリニューアルしましたが、その約10年後の2008年10月には遊具を撤去し、庭園へと姿を変えました。開業から70年近く親しまれてきた屋上遊園地でも、老朽化した遊具を更新し続けるのは、決して簡単なことではなかったことがうかがえます。
出典:京都市消防局「百貨店等の避難の用に供することができる屋上広場の取扱いについて」/朝日学情ナビ「消える屋上遊園地…昭和~平成でデパート客層様変わり!」/中国新聞デジタル「昭和の百貨店を彩った『屋上遊園地』」
起源・衰退・現在を、あらためて並べ直すと
ここまで見てきた事実を、あらためて時系列で並べ直してみます。
屋上遊園地は「昭和30〜40年代の高度成長期に生まれ、テーマパークの登場とともに衰退した」という一直線の物語として語られがちですが、今回確認できた範囲では、もう少し複雑な経緯が見えてきます。起源は昭和の高度成長期どころか1910年(明治43年)までさかのぼり、全盛期を迎えるまでには数十年の時間がありました。衰退についても、テーマパークとの競合だけでなく、屋上を安全に使い続けるための規制面の制約と、百貨店という業態そのものの構造変化という、性質の異なる要因が重なっていました。
そして現在も、屋上遊園地は一斉に消えてしまったわけではなく、松坂屋名古屋店のように現役で維持され続ける場所、福屋八丁堀本店のように遊具はなくなっても屋上そのものは開放され続けている場所、そして松屋浅草のように2010年に約80年の歴史へ幕を下ろし屋上そのものが立ち入り不可になった場所と、それぞれ違うかたちで今に至っています。「生まれて、ブームになって、消えた」という単純な三段階ではなく、始まりも終わり方も一様ではなかった、というのが実際に近いといえそうです。
百貨店文化を映す屋上の記憶
屋上遊園地は、単なる遊び場ではなく、百貨店が「何でも揃う、家族のための特別な場所」であろうとした時代を象徴する存在でもありました。買い物のついでにちょっとした遊びを、という発想そのものが、当時の百貨店が地域の暮らしに深く関わっていたことを物語っています。ネット通販でなんでも届く今からすると、建物の屋上まで足を運んで遊具に乗るという行為自体が、ずいぶん贅沢な時間の使い方に思えてきます。屋上から見下ろす街並みを眺めながら乗った観覧車の記憶、順番を待ちながら見上げた青空の記憶は、今も多くの人の中に残っています。
今も残る屋上遊園地
現在、デパートの屋上遊園地は全国的にごくわずかしか残っていないとされています。ただし、現存する店舗の正確な数については、情報源によって数字が一致しておらず、確実な現行の裏付けが得られなかったため、本ページでは具体的な店舗数を断定していません。それでも、その「残り方」には、いくつかの異なるパターンがあることが、個別の事例からうかがえます。
ひとつは、松坂屋名古屋店のように、屋上遊園そのものを現役で維持し続けているパターンです。同店のニュースリリースによれば、1910年に始まった屋上遊園は、2024年5月から約9か月間リニューアルのために休園したのち、2025年3月に再オープンしました。100年以上前に置かれたブランコが、令和のリニューアルを経てなお現役だというのは、なかなか息の長い話です。レトロなコイン遊具を残しつつ新しい遊具も加えられており、同社自身「全国的にも希少な百貨店の屋上遊園」と位置づけています(この希少性の具体的な根拠は、リリース内では示されていません)。同店公式サイトのフロアガイドでも、2026年9月13日時点で屋上遊園がRF階の施設として案内されており、営業が続いていることを確認できます。
もうひとつは、福屋八丁堀本店のように、遊園地としての設備はなくなったものの、屋上のスペース自体は開放され続けているパターンです。中国新聞デジタルの記事によれば、同店の屋上は2023年10月時点で「四つの百貨店で唯一、自由に出入りできる屋上」とされ、遊園地こそなくなったものの、子ども用の足こぎ遊具が置かれているといいます。かつて全国のデパートに当たり前にあった屋上遊園地は、こうして「現役で残る場所」と「形を変えて残る場所」に分かれながら、今も一部で続いています。
出典:株式会社大丸松坂屋百貨店ニュースリリース「松坂屋名古屋店『屋上遊園』リニューアルオープン」/松坂屋名古屋店公式フロアガイド「本館8F/RF ART HUB NAGOYA/美術 RF/屋上遊園」/中国新聞デジタル「昭和の百貨店を彩った『屋上遊園地』」
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学校・地域・年代によって内容は異なります。あなたの記憶と重なるものはありますか?
- デパートの屋上遊園地で遊んだ記憶はありますか?
- 観覧車やミニ豆汽車に乗ったことはありますか?
- 買い物の後に屋上遊園地へ立ち寄るのが楽しみだった経験はありますか?
出典・注意事項
本ページは、国立国会図書館「本の万華鏡」、中国新聞デジタル、松坂屋史料室、株式会社大丸松坂屋百貨店ニュースリリース・公式フロアガイド、京都市消防局、朝日学情ナビ、J-CASTニュースの記事をもとに構成しています。個別の情報については、各見出しに出典を明記しています。現存する屋上遊園地の店舗数については情報源間で数値が一致しないため、断定的な記載を避けています。屋上広場の避難空地に関する基準は京都市の要綱にもとづくものであり、全国一律の規定として記載しているわけではなく、屋上遊園地の減少との直接的な因果関係を示すものとしても扱っていません。「日本最古」を名乗る屋上遊園地は複数あり、定義によって答えが変わるため、いずれか一方を確定的な最古として記載していません。1910年のブランコ設置は松坂屋自身の社史にもとづくもので、第三者による独立した裏付けは確認できていません。
ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。