冷凍みかんはなぜ駅で売られた?小田原と二つの商品化年

公開日:2026年10月24日

昭和の夏の列車内で、網袋入りの冷凍みかんを手に取り、食べ頃を待つ旅客の情景を描いたイメージ画像

※AIによるイメージ画像です

網袋から一つ取り出しても、すぐには歯が立たないほど硬い。列車が次の駅へ向かうあいだ、手のひらや座席の小卓で少し待つ。冷凍みかんには、買った瞬間ではなく、食べられる頃合いを待つ時間まで付いていました。

夏の駅で売られた冷たい果物には、小田原のみかん産業と国鉄の売り場が交わった歴史があります。ところが、商品化された年を調べると、資料は一つの答えを返しません。小田原市は1956年、農林水産省の別資料は1951年と記しています。

どちらかを都合よく消せば話は簡単です。でも、記録が分かれていることも歴史の一部です。先にあった網入りみかん、表面を覆う薄い氷、駅から学校給食へ広がった記憶を順にたどってみましょう。

1951年と1956年、二つの商品化記録

冷凍みかんは、いつ商品になったのでしょう。農林水産省の2017年6月資料は、冷凍みかんが1951年に商品化されたと説明しています。一方、小田原市の広報資料は、1956年に小田原のみかん会社と冷凍食品会社が協力して商品化したと記します。どちらも公的機関が公開している資料です。

ここで確認できるのは、商品化年の記載が1951年と1956年に分かれているという事実までです。対象にした事業者、地域、製造規模、販売経路のどこに違いがあるのかは、この二つの資料からは決められません。

小田原市の1956年という記録には、地元のみかん会社と冷凍食品会社の協力、その後の国鉄駅での販売までが結びついています。農林水産省の資料は1951年を商品化年として示しますが、事業者や販売地域までは同じ粒度で説明していません。二つの年は、同じ文章の中で競う数字というより、別々の資料が照らした輪郭です。

『商品化』には、試作が販売品になった時、ある会社が製造を始めた時、駅の流通網へ乗った時など、いくつもの節目があり得ます。ただし、1951年と1956年がそれぞれどの節目を指すのかはわかっていません。ここは推理で埋めず、冷凍みかんに二つの公的な商品化記録が残る、と覚えておくのがいちばん正確です。

食べれば姿がなくなる商品は、器物ほど来歴を追いやすくありません。行政の広報と後年の紹介資料が、それぞれ違う場所や出来事を記録することもあります。年を一つへ丸めないことで、小田原の取り組みと、より早い商品化記録の両方が歴史の中に残ります。

出典:小田原市『広報小田原アーカイブ(平成27年1月1日発行)』/農林水産省『aff 2017年6月号』

小田原のみかんは、鉄道と出会って商品になった

冷凍みかんの前に、小田原のみかんそのものが商品として運ばれるまでを見ておきましょう。小田原市によると、この地域では江戸時代にみかん栽培が始まりました。海に面した温暖な気候、水はけのよい土地が、温州みかんを育てる条件になりました。

1887年(明治20年)の東海道鉄道、翌年の小田原馬車鉄道の開通をきっかけに、みかんの商品化が進みます。1892年頃には下曽我村で栽培が奨励され、その後、足柄下郡で大規模な植栽が行われたと小田原市は記しています。冷凍技術が現れるより前に、産地と運ぶ経路が育っていました。

冷凍みかんは、突然駅の冷凍庫から生まれたのではありません。みかんを育てる土地と、外へ運ぶ鉄道が先に結びついていたからこそ、網入りの商品も、夏向けの冷凍商品も、その先へ進めました。

産地、包装、冷凍、駅売りを一つの発明へまとめないことが大切です。それぞれは異なる時期に、別の問題へ答えています。栽培は実を作り、鉄道は市場へ運び、網は中身を見せ、冷凍は季節を越えて冷たさを保とうとしました。冷凍みかんの歴史は、この分業を重ねた歴史でもあります。

出典:小田原市『広報小田原アーカイブ(平成27年1月1日発行)』

冷凍より先にあった、1932年の網入りみかん

小田原市の資料をもう少し前へ戻ると、1932年(昭和7年)に『網入りみかん』が始まったとあります。地元のみかん会社が、漁師から譲り受けた破れた漁網を使い、みかんを網の袋へ入れて売ったという記録です。中身が見え、持ち運びやすいことが喜ばれました。

網入りみかんと冷凍みかんは同じものではありません。1932年の記録が示すのは、生のみかんを網へ入れて見せ、運ぶ工夫です。のちの冷凍商品は、夏にも冷たいみかんを売るための保存と温度の工夫を重ねます。袋の姿が似て見えても、商品として解いた問題が違いました。

つまり、網は冷凍する技術より先に、見せる包装と持ち運ぶ道具として働いていたのです。果物の色や個数が外からわかり、旅人は手に下げて歩けます。箱を開けなければ中身が見えない売り方とは、買う前の情報量も違いました。

ただし、当時の網の色、袋へ入れた個数、口の結び方まで全国共通だったわけではありません。後年の写真で見慣れた赤や緑の網も、1932年から変わらない標準仕様とは限りません。網入りという発想と、のちに広まった見た目は、いったん分けて眺める必要があります。

出典:小田原市『広報小田原アーカイブ(平成27年1月1日発行)』

小田原の柑橘を選別し、みかんを網袋へ詰める人びとの作業を描いたイメージ画像
※産地でのみかんの選別と網包装の関係をもとにAIで構成したイメージです。冷凍みかんの製造工程を再現したものではありません

ただ凍らせるだけではない、表面の薄い氷の役目

みかんを冷凍庫へ入れれば、家庭でも凍らせることはできます。けれど、農林水産省が紹介する一般的な冷凍みかんの作り方には、もう一段階あります。いったん凍らせたみかんを冷水へ短時間浸し、その表面に薄い氷の膜を作ってから、もう一度凍らせます。

工程を短く並べると、凍らせる、冷水へくぐらせる、薄い氷の膜ごと再び凍らせるという三段階です。表面を氷で覆うことで、保存中の乾燥を抑える考え方が見えてきます。見た目の霜を増やすための演出ではありません。

農林水産省が紹介しているのは、現在確認できる一般的な作り方です。1951年や1956年の商品化当時の工場が、同じ温度、同じ時間、同じ順序で作っていたことを示す記録ではありません。表面の薄い氷の役目はわかっても、初期の製造ラインまでは見えていない。この二つを混ぜないことが肝心です。

薄い氷をまとった実は、買った直後には硬く、少しずつ緩んで皮をむけるようになります。すぐ口へ運ぶ菓子とは違い、指で硬さを確かめながら頃合いを選ぶ。冷凍みかんは、冷たさと一緒に小さな待ち時間を売る商品でもありました。

出典:農林水産省『冷凍保存のコツ』

みかんを凍結し、冷水へ短時間浸し、再凍結して薄い氷膜で覆う三段階の図解
現在確認できる、表面に薄い氷を作る一般的な方法を図式化したものです(1950年代の工場工程を示すものではありません)

小田原から国鉄駅へ、夏の売り場が広がる

小田原市は、1956年の商品化後、冷凍みかんが全国の国鉄駅で販売されたと説明しています。小田原は温州みかんの産地で、東海道の鉄道と結びつく場所でもありました。産地で商品を作るだけでなく、鉄道の売り場に乗せられたことで、遠くの旅人の手へ届く道筋ができました。

駅の売り物には、時間の制約があります。列車は発車し、旅人は持ち歩き、車内には家庭の食卓のような冷蔵庫も流し台もありません。網袋なら中身が見え、折箱を開く必要もなく、食べ終えれば大きな容器が残りません。駅で扱う果物として、ずいぶん理にかなった姿です。

既存の駅弁の歴史では、ホームの立ち売りや、列車の停車時間が買い物を支えたことをたどりました。冷凍みかんも同じ駅の売り場にありましたが、弁当とは役目が違います。食事ではなく、暑い時期に持ち歩ける冷たい果物として、旅の途中へ入り込みました。

駅弁のそばで売られた飲み物の道具は、汽車土瓶からポリ茶瓶へ移ったお茶容器の歴史で、使う手順とともにたどれます。

小田原市は『全国の国鉄駅』で販売されたと記していますが、これはすべての駅にいつでも置かれた、という意味ではありません。販売した駅や地域ごとの時期、数量は別の記録が必要です。それでも、小田原で生まれた商品が国鉄の販売網へ入り、産地から離れた旅人へ届いたことはわかります。

遠くの駅まで凍った商品を届けるには、作る人だけでなく、運ぶ人と売り場へ並べる人が要ります。当時の冷蔵輸送設備や温度条件までは追えなくても、商品化と駅売りが別の仕事だったことは見落とせません。冷凍みかんは工場で完成した後、もう一度、流通の力で列車旅の食べ物になりました。

出典:小田原市『広報小田原アーカイブ(平成27年1月1日発行)』

昭和の夏の列車内で、網袋から出した冷凍みかんが食べ頃になるのを待つ旅客の情景を描いたイメージ画像
※当時の列車旅と販売資料をもとにAIで構成したイメージ画像です

駅の記憶が、学校給食の記憶にもなった

農林水産省の2017年6月資料は、冷凍みかんが昭和30年代から40年代に学校給食でも人気だったと紹介しています。駅で出会った人だけの食べ物ではなく、教室で給食を食べた世代にも記憶が広がりました。列車旅と学校生活という別の場所を、一つの冷たい果物がつないでいます。

給食では、旅の途中のように景色が動くわけではありません。それでも、少し溶けるのを待ち、皮へ指をかける動作は共通します。冷凍みかんの特徴は、どこで食べても同じ物語になることではなく、冷たさと待ち時間がそれぞれの場所の記憶に残りやすかった点にあります。

駅から学校へ場所が変わっても、買ったり配られたりした直後には食べ頃ではないという性質は変わりません。食べる人の側に、少し待つ判断が残されていました。

学校給食の献立は地域や年代で異なります。『自分の学校では出た』『うちでは見なかった』という記憶が分かれるのも不思議ではありません。昭和30〜40年代に人気だったという大きな流れの中に、教室ごとの違いが残っている。そこが生活史のおもしろいところです。

出典:農林水産省『aff 2017年6月号』

昭和の学校給食で、冷凍みかんを前に食べ頃を待つ子どもたちの情景を描いたイメージ画像
※学校給食へ広がった冷凍みかんの記録をもとにAIで構成したイメージ画像です

食べ頃を待つ時間まで、列車旅の一部だった

冷凍みかんの歴史をたどると、発明者一人のひらめきだけでは終わりません。小田原のみかん栽培、1932年の網包装、1950年代の商品化、国鉄駅の販売網、凍結と表面の薄い氷の工夫が重なり、旅の途中で手に取れる形になりました。

冷凍みかんは、冷たい果物を売っただけでなく、食べ頃を自分で見きわめる時間も旅へ持ち込んだ商品でした。硬ければ待ち、表面が緩めば皮をむく。列車が進む時間と、みかんがほどける時間が、座席の上で並んで流れます。

次に冷凍みかんを見かけたら、表面の薄い氷だけでなく、その外側にあった網袋と駅の売り場も思い出してみてください。一つの実のまわりに、小田原の産地、二つの商品化記録、国鉄の流通、学校給食の記憶が重なっています。わからない部分を残したままでも、この果物が旅へ入ってきた道筋は十分に具体的です。

出典:小田原市『広報小田原アーカイブ(平成27年1月1日発行)』/農林水産省『aff 2017年6月号』/農林水産省『冷凍保存のコツ』

出典・注意事項

本ページは、小田原市と農林水産省の公開資料をもとに構成しています。商品化年は資料により1951年と1956年に分かれるため、理由を推測せず両方を記載しています。表面に薄い氷を作る工程は現代に確認できる一般的製法であり、当時の工場工程と同一とは断定していません。

ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。