ジュークボックスとは?昭和の喫茶店にあった、コインで曲を選ぶ自動演奏機
公開日:2026年9月5日

※AIによるイメージ画像です
喫茶店やスナックの片隅に置かれ、コインを入れてボタンを押すと、選んだ曲が自動で流れ出す——そんなジュークボックスを覚えていますか。ガラス張りの表面いっぱいに並んだ曲目の番号を、うれしそうに指でなぞった記憶がある人もいるかもしれません。
アメリカ生まれのこの機械が、いつごろ日本に伝わり、どのように広まり、なぜ今ではあまり見かけなくなったのかを、複数の資料をもとに詳しくたどります。あわせて、当時の価格や具体的な機種の記録、令和の今も残る修理職人の存在にも触れます。
19世紀末、アメリカで生まれたコイン式の自動演奏機
ジュークボックスは、コインを投入してボタンを押すと選んだ曲が自動で流れる装置で、19世紀末のアメリカで生まれたとされています。当初は飲食店などで客に自由に使わせる目的で考案され、その後選曲できる機種が発展し、コインを入れて音楽を楽しむという文化がアメリカ国内で広まっていきました。
複数の海外メディアの記事によれば、1889年11月、サンフランシスコの酒場に設置されたエジソン式蓄音機に、聴音管とコイン投入口を4つ取り付けた装置が、最初期のジュークボックスの原型とされています。この酒場はわずか1年足らずで閉店してしまったものの、その半年間だけで当時としては大金だったとされる収益を上げたと伝えられており、「コインを入れて好きな音楽を聴く」という仕組みが、登場した瞬間から高い需要を持っていたことがうかがえます。ただし、この起源に関する情報は企業公式・学術機関等の一次資料には今回到達できておらず、複数のメディア記事が共通して伝える内容として紹介するにとどめておきます。
Wikipediaの解説によれば、「ジュークボックス」という名前自体は、アメリカ南部のクレオール言語である「ガラ語」で「よこしま」「無秩序」を意味する『juke(ジューク)』という言葉に由来するとされています。音楽を聴きながら飲食や踊りを楽しむ大衆的な店を指す「juke joint」という言葉から、そこに置かれた自動演奏機自体が「jukebox」と呼ばれるようになったといわれています。日本の喫茶店に置かれた、どちらかといえば上品な印象のジュークボックスとは対照的に、名前のルーツをたどると、もう少し賑やかで庶民的な酒場の文化に行き着くというのは、興味深い一面です。
ガラス張りの表面と、番号を押すと動き出すしくみ
CBC MAGAZINEの記事によれば、ジュークボックスの表面はガラス張りになっており、演奏可能な曲目が番号とともにびっしりと並んでいたといいます。利用者が曲の番号をボタンで打ち込むと、箱の中に収められたレコードが機械の中で自動的にセットされ、レコード針が降りて演奏が始まる仕組みでした。
同記事によれば、本体は高さ約1.5メートル、幅約1メートル、奥行き約70センチほどの大きな箱型で、その中に100枚以上ものドーナツ盤(EPレコード)が収納されていたとされています。今のようにデータで曲を呼び出すのではなく、実物のレコードを一枚ずつ機械が探し出して演奏するという、いわば「アナログな自動選曲」だったことになります。ボタンを押してから曲が鳴り出すまでのわずかな間、機械の内部でレコードが探し出される様子そのものも、この機械ならではの楽しみ方の一つだったと考えられます。
進駐軍が持ち込み、1曲10円から始まった価格
CBC MAGAZINEの記事によれば、日本のジュークボックスは、もともと19世紀末のアメリカで生まれた機械が、戦後、進駐軍によって日本に持ち込まれたのがきっかけとされています。その後1960年代からは国産のジュークボックスも製造されるようになり、旅館やホテルの娯楽室、ゲームセンター、ボウリング場、スナックバーなど、人が集うさまざまな場所に置かれていったといいます。
同記事によれば、価格は登場した当初は1曲10円だったという記録がある一方、その後は1曲50円ほどになり、100円で3曲選べると「お得」に感じられた時期もあったとされています。1曲あたりの価格が時代とともに上がっていったことは、当時の物価の変化だけでなく、ジュークボックスという娯楽そのものの位置づけが変わっていったことも反映していると考えられます。
北海道の喫茶店に18年、実在した1台の記録
知床博物館協力会の資料によれば、1970年(昭和45年)頃に発売された日本ビクター製の「JB-3100」というジュークボックスは、EPレコード50枚(100曲)を格納でき、100円で4曲を選択して聴くことができた機種でした。
同資料によれば、この機種は北海道の喫茶店「喫茶ナポリ」で、1988年(昭和63年)頃まで実際に使用されていたことが記録されています。1970年前後に発売された機械が、その土地の喫茶店で20年近く現役として使われ続けていたという1台の具体的な記録は、ジュークボックスが特別な時期だけの一時的な流行ではなく、地域の日常の風景として長く根づいていたことを物語っています。
戦後、日本へ。輸入元の一つは後のタイトー
株式会社タイトー公式サイトの沿革によれば、同社の前身「太東貿易株式会社」は1953年(昭和28年)に東京都港区で設立され、1954年(昭和29年)にはジュークボックスの賃貸業務を開始し、1956年(昭和31年)には純国産ジュークボックス1号機を開発したといいます。
現在アーケードゲームの大手として知られる同社が、もとはジュークボックスの輸入・賃貸業からスタートしていたというのは、日本のゲームセンター文化のルーツを考えるうえでも興味深い事実です。
同じくアーケードゲーム大手のセガも、公式サイトの沿革によれば1960年に日本娯楽物産株式会社として設立され、国産初のジュークボックス「セガ1000」を発売しています。その後1965年に株式会社セガ・エンタープライセスへ商号を変更し、現在のセガへとつながっていきました。なお、セガという名の由来や、輸入業を担っていたとされる前身企業の詳細については、公式サイトでの直接の記載が確認できなかったため、断定は避けています。
Wikipediaの解説によれば、戦後の日本にジュークボックスを輸入していたのは太東貿易(後のタイトー)、レメーヤー&スチュアート社(後のセガ)、そしてV&V社という3社だったとされています。同解説では、セガの「セガ1000」は1962年に発売されて大ヒットしたとも紹介されており、タイトー・セガという2大企業に加えて、もう1社の輸入元が存在していたことがわかります。
同解説(脚注付き)によれば、この3社目のV&V社の社員だった中山隼雄氏は、1967年に独立して日本初のゲーム機配給会社「エスコ貿易」を設立し、のちにセガの社長を務めたとされています。ジュークボックスの輸入業に携わっていた一人の社員が、その後の日本のアーケードゲーム業界を代表する企業の経営者になっていったという事実は、ジュークボックスという機械が、後年のゲームセンター文化を担う人材そのものを育てる土壌にもなっていたことを示しています。太東貿易・セガ・V&V社という3社の輸入元から、それぞれ後年の日本のアミューズメント産業を形づくる人物や企業が育っていったことになります。
出典:株式会社タイトー公式サイト「沿革」/株式会社セガ公式サイト「会社情報・沿革」/Wikipedia「ジュークボックス」

1970年代まで、喫茶店やホテルの定番だった
戦後日本では、コインを入れて好きな曲を選ぶジュークボックスが、1970年代までは喫茶店やホテルを中心に広く親しまれていたといわれています。コインを入れて音楽を選ぶという行為自体が、当時の喫茶店やスナックでの過ごし方の一つとして定着していました。
CBC MAGAZINEの記事の著者は、新しいレコードが発売されると、その新曲が早々にジュークボックスへ導入されていったと振り返っており、「ピンキーとキラーズ」や「辺見マリ」のデビュー曲を、ジュークボックスで聴いた個人的な思い出として挙げています。これは著者個人の回想にとどまるため断定はできませんが、レコード店で買う前にジュークボックスで新曲を耳にするという楽しみ方も、当時はあったのかもしれません。

ピンボール、そしてカラオケの登場で主役交代
Wikipediaの解説によれば、日本のジュークボックスは1960年代後半ごろからピンボールやエレメカといった機器にアミューズメント機器の主役の座を譲っていったとされています。1970年代後半にはタイトー自身も「スペースインベーダー」を発表し、ビデオゲームという新しい娯楽がアミューズメント業界の主役になっていきました。ジュークボックスもまた、ピンボール機やビデオゲームに主役の座を譲り、さらに1980年代にはカラオケとCDの普及によって、市場は縮小していったといわれています。
同解説によれば、CDの普及後にはCDを搭載したジュークボックスも登場したものの、レコードの時代のような主流の存在には戻れなかったとされています。現在では、セガトイズなどから「アンティーク風おもちゃ」として小型のジュークボックスが販売されているのが実情で、実用の音楽再生機器としてではなく、懐かしさを演出する置物のような形で名前が残っているといえます。
令和のレトロブームで、再び注目される修理職人
北海道新聞デジタルの記事によれば、札幌市に住む会社員の亀卦川浩司さんは、自宅の工房でジュークボックスの修理を行っており、「全国から依頼が絶えない」という状況が続いているといいます。JR琴似駅から徒歩15分ほどの住宅街にある約30平方メートルの工房には、修理待ちや修理済みの5〜6台が置かれているとされています。
同記事によれば、1960年製のアメリカ・ロッコーラ社製ジュークボックスを修復した事例では、メッキ塗装や部品交換を含めて数十万円の修理費用がかかったとされています。同記事は、この需要の背景に近年のレトロブームがあり、中古のジュークボックスが市場に出回るようになったことを指摘しています。1970年代にカラオケの台頭で急速に数を減らしたジュークボックスが、令和の時代になって、当時とは違う「懐かしさを楽しむ対象」として再び注目されていることがわかります。実用品としての現役時代は終わっても、修理職人という新しい形の担い手によって、この機械そのものの命は今もつながれているといえます。
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これ覚えてる?
学校・地域・年代によって内容は異なります。あなたの記憶と重なるものはありますか?
- 喫茶店やスナックでジュークボックスを見た記憶はありますか?
- コインを入れて、どんな曲を選んで聴いていましたか?
- ジュークボックスがある場所は、どんな雰囲気でしたか?
出典・注意事項
本ページは、株式会社タイトー公式サイト・株式会社セガ公式サイトの「沿革」をもとに構成しています。個別の情報については、各見出しに出典を明記しています。アメリカでの起源、セガの社名の由来・前身企業の詳細など、企業公式資料で直接確認できなかった部分は、断定を避けた表現にとどめています。
ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。