ちり紙交換とは?拡声器の声が聞こえた昭和の住宅街の記憶

公開日:2026年9月10日 更新日:2026年9月12日

昭和の住宅街を、拡声器を積んだちり紙交換車が巡回する場面のイメージ画像です。特定の企業・車両の再現ではありません。

※AIによるイメージ画像です

「まいどおなじみの、ちり紙交換車でございます」。そんな声を拡声器越しに聞いたことはありませんか。

古新聞・古雑誌をトイレットペーパーと交換して回っていた「ちり紙交換」が、いつ広まり、なぜ姿を消していったのかをたどります。

ちり紙交換とは?古紙とちり紙を交換する仕組み

ちり紙交換とは、家庭で不要になった古新聞や古雑誌を、トイレットペーパーやちり紙と交換して回収する仕組みです。

高津紙器株式会社の記事によれば、この仕組みは古紙問屋などによって長く担われてきた、半世紀以上の歴史を持つ社会システムでした。

ちり紙交換で古紙を集める業者は、家庭から回収した古紙をそのまま自社で使うのではなく、種類ごとに仕分けたうえで古紙問屋に持ち込み、重さに応じた対価(古紙相場)を受け取っていました。古紙問屋はさらにその古紙を選別・梱包し、製紙メーカーへ原料として卸していたとされ、家庭からちり紙交換人・古紙問屋・製紙メーカーへと、古紙が段階を追って流通していく仕組みになっていました。

古紙問屋が古紙を集約する拠点(古紙ヤード)は現在も全国に約2,000か所あるとされ、家庭から出た古紙を製紙メーカーが使える原料へ整える役割を担っています。家庭にとっては、捨てるはずだった古新聞が日用品に変わるという分かりやすい利点があり、多くの住宅街で当たり前の光景として定着していました。

出典:高津紙器株式会社「半世紀も前に生まれた社会システム『古紙回収』」/公益財団法人古紙再生促進センター「古紙問屋・集荷の現場から」

いつ、なぜ始まったのか

「ちり紙交換」という業態そのものは、いつ頃から始まったのでしょうか。

ナカノ株式会社の繊維リサイクルコラムによれば、ちり紙交換は昭和39年(1964年)に始まり、翌昭和40年(1965年)には全国に広まったと伝えられています。

当時は高度経済成長にともなって、それまで古着や布切れ(ぼろ)を回収していた故繊維業界の集荷網が立ち行かなくなりつつありました。そうした状況の中で、古紙とあわせて故繊維も回収するちり紙交換という仕組みが登場した、と伝えられています。

1973年(昭和48年)のオイルショックで最盛期を迎えるより前から、家庭の古新聞を日用品と交換するという光景は、すでに住宅街に根づき始めていたことになります。

出典:ナカノ株式会社「繊維リサイクルの歴史【010】『ちり紙交換』の登場と故繊維業界」

そもそも「ちり紙」とは何だったのか

「ちり紙」という言葉自体、今では聞き慣れないという人も多いかもしれません。ちり紙は、コウゾ(楮)の外皮くずなどを原料としてつくられた和紙の一種で、もともとは和紙を包んで保護するための紙だったと伝えられています。

トイレットペーパーのバンビックスの記事によれば、日本では昭和後半まで、トイレットペーパーの役割を「平判(ひらばん)ちり紙」と呼ばれる四角い紙が担っており、ロール状のトイレットペーパーとは形も使い方も異なっていました。ちり紙は「鼻紙」「落とし紙」といった呼び名でも親しまれ、トイレでも鼻をかむときにも使われる、暮らしに欠かせない紙製品でした。

出典:トイレットペーパーのバンビックス「昔ながらの『ちり紙』と『ティッシュペーパー』の違いとは?」

なぜ「お金」ではなく「紙製品」と交換したのか

ちり紙交換という名前のとおり、この仕組みの中心は現金ではなく紙製品による交換でした。ちり紙交換を営んでいたのは主に古紙問屋やその関係業者で、回収した古紙はすべてリサイクル資源として買い取られ、業者の利益につながっていました。

業者にとっては、現金ではなく自社で扱えるトイレットペーパーやちり紙といった紙製品を渡すことで、古紙の買い取りと日用品の販売を同時に行う仕組みになっていました。家庭側は、古新聞を出すだけでいずれ必ず使う日用品が手に入るという、分かりやすい交換でした。

なお、地域や業者によっては現金で買い取るケースもあり、すべてのちり紙交換が紙製品との交換だったわけではないとも伝えられています。

拡声器の声が知らせる、ちり紙交換車の巡回

ちり紙交換の記憶を語るとき、多くの人がまず思い浮かべるのは、あの独特な呼びかけの声ではないでしょうか。軽トラックにスピーカーを積んだちり紙交換車が、住宅街をゆっくりと巡回しながら「まいどおなじみの、ちり紙交換車でございます。ご家庭でご不要になりました古新聞・古雑誌がございましたら…」といった決まり文句を拡声器で流して歩く。

その声が聞こえると、家族総出で新聞紙を束ねて外へ運び出す。トイレットペーパーが数個、その場で手渡される。特別な手続きも予約も要らない、住宅街のリズムの一部として組み込まれた光景でした。

物干し竿を売り歩く「竿竹屋(さおだけや)」の声とともに、昭和の住宅街に定期的に響く「流し売り」の音のひとつとして記憶されています。

予約を取る仕組みも、決まった曜日に必ず来るという保証もない中で、拡声器の声が聞こえてきた瞬間に古新聞をまとめて外へ持って出る。そんな慌ただしいやり取りが、住宅街のあちこちで繰り返されていました。

新聞紙を紐で束ねる作業、交換で受け取ったトイレットペーパーを両手で抱えて家に戻る様子など、当時の暮らしの具体的な場面として語り継がれています。

昭和の住宅街を、拡声器を積んだちり紙交換車がゆっくり巡回する場面のイメージ画像です。特定の企業・車両の再現ではありません。
※当時の雰囲気をもとにAIで作成したイメージ画像です

オイルショックと、ちり紙交換の全盛期

ちり紙交換が最も活気づいたのは、1973年(昭和48年)の第一次オイルショックの時期だったと伝えられています。石油価格の高騰をきっかけに紙製品の価格も上昇し、大阪のスーパーで起きたとされる買いだめをきっかけに、トイレットペーパーが店頭から消える騒動が全国に広がりました。

古紙価格が高騰していたこの時期、免許さえあれば特別な資格や学歴を問わず始められる仕事として、ちり紙交換に携わる人が急増したとされています。政府もこの混乱を受け、トイレットペーパー・ちり紙を国民生活安定緊急措置法の指定品目に追加し、標準価格を設定する対応をとりました。

ナカノ株式会社の記事によれば、1979年(昭和54年)の第二次オイルショックの際にも古紙価格が急騰し、ちり紙交換の活況が一時的に再燃したと伝えられています。

オイルショックは石油そのものだけでなく、石油を原料・燃料とするあらゆる産業へ影響が連鎖しました。紙の生産・輸送にも石油が使われるため、紙製品の価格が上がり、その結果、代替材料である古紙の価値そのものが跳ね上がるという構図が生まれたのです。

ちり紙交換の全盛期は、こうした経済全体の混乱が、住宅街を回る個人商店の商売にまで直接影響を及ぼしていたことを物語っています。

出典:千里ニュータウン情報館「トイレットペーパー騒動」/ナカノ株式会社「繊維リサイクルの歴史【010】『ちり紙交換』の登場と故繊維業界」

家庭で束ねた古新聞をちり紙交換車へ運び出し、トイレットペーパーを受け取る場面のイメージ画像です。特定の人物・企業の再現ではありません。
※当時の雰囲気をもとにAIで作成したイメージ画像です

回収された古紙は、何に生まれ変わるのか

ちり紙交換で回収された古紙は、そのまま捨てられるわけではなく、種類ごとに分別されて新たな紙製品の原料として再利用されていました。

株式会社利根川産業の解説によれば、新聞紙は新聞用紙やコピー用紙、雑誌は菓子箱・書籍・段ボール箱の原料に、それぞれ生まれ変わるとされています。トイレットペーパーそのものも、実は古紙から作られる再生紙製品のひとつです。

つまりちり紙交換は、家庭で不要になった古紙が、形を変えてふたたび家庭で使うトイレットペーパーとして戻ってくるという、資源を循環させる仕組みでもあったのです。「リサイクル」や「資源循環」という言葉が一般に意識される以前から、ちり紙交換は結果としてこうした循環を実現していました。

家庭の実利(不要な紙が日用品に変わる)と、業者の商売(古紙を集めて紙メーカーへ卸す)は、それぞれ別の目的を持ちながら、同じひとつの流れの中で成立していました。

出典:株式会社利根川産業「リサイクル優等生、基礎から学べる古紙とは?」

なぜ減り、今は何が残っているのか

ちり紙交換という仕組みは、オイルショック後の時代の変化とともに、少しずつ役割を終えていきました。

古紙価格の下落と、回収ルートの多様化

オイルショック後、時間が経つにつれて古紙の価格は下落していきました。古紙問屋から支払われる引き取り価格が下がれば、ちり紙交換で生計を立てることは難しくなります。

収入が見込めなくなったことから、より条件のよい仕事へ転職する人が相次ぎ、ちり紙交換という業態そのものが徐々に縮小していったと伝えられています。

加えて、環境問題への意識の高まりとともに、新聞販売店による回収、自治体による行政回収、子ども会等の団体回収など、古紙を集めるルート自体が多様化していったことも、ちり紙交換という特定の業態が縮小していった背景にあります。

1980年代に入り、スーパーマーケットで食材を手軽に買えるようになると、行商そのものが減っていったことも重なり、竿竹屋とともにちり紙交換車は住宅街を巡る数少ない「流し売り」の存在になっていったとされています。

高津紙器株式会社の記事によれば、1970年代の終わり頃には、自治会や子ども会が地域単位で古紙をまとめて集める「集団回収」も実施されるようになったと伝えられています。一軒ずつ訪問して日用品と交換するちり紙交換に対し、集団回収は決まった日に地域でまとめて古紙を出す仕組みで、この頃から古紙を集める主体そのものが多様化し始めていたことになります。

ちり紙交換という個人商店ベースの仕組みが縮小していく一方で、「資源を集める」という役割そのものは、個人の行商から自治体・組織による回収へと、担い手を変えながら引き継がれていきました。

出典:公益財団法人 古紙再生促進センター公式サイト/高津紙器株式会社「半世紀も前に生まれた社会システム『古紙回収』」

今も続く古紙リサイクルの仕組み

ちり紙交換の担い手が縮小していったのと入れ替わるように、自治体による組織的なごみ処理・資源回収の仕組みが整えられていきました。

環境省の資料によれば、1954年(昭和29年)に制定された清掃法によって、ごみの収集・運搬・処分は市町村の責任と定められました。

1976年(昭和51年)には静岡県沼津市で日本初とされるごみの分別収集が始まったと伝えられています。

1990年代に入ると、環境問題への意識の高まりとともに、古紙や空き缶・空き瓶などが「資源ごみ」として分別収集される仕組みが全国の自治体へ広がっていきました。

古紙再生促進センターによれば、2020年度の日本の古紙回収率は約85%、古紙利用率は約67%と、いずれも世界でもトップクラスの水準にあるとされています。自治体の資源回収や新聞販売店のルート回収といった形で、古紙は着実にリサイクルされ続けています。

ちり紙交換は、拡声器を積んだ個人商店の巡回という一時代の担い手から、自治体・新聞販売店・回収業者による組織的な仕組みへと、日本の古紙リサイクルのあり方そのものが移り変わっていく、大きな転換点のひとつだったといえます。

1964年に始まったとされるちり紙交換という業態は、今ではほとんど姿を消しました。それでも、家庭の不要な古紙が回収され、製紙原料を経て、ふたたび日用品として家庭に戻ってくるという循環の仕組み自体は、担い手を個人商店から自治体・新聞販売店へと変えながら、形を変えて今も続いています。

出典:環境省大臣官房廃棄物・リサイクル対策部「日本の廃棄物処理の歴史と現状」/公益財団法人 古紙再生促進センター公式サイト

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出典・注意事項

本ページは、公益財団法人古紙再生促進センター、高津紙器株式会社、千里ニュータウン情報館、ナカノ株式会社、株式会社利根川産業、トイレットペーパーのバンビックスの記事をもとに構成しています。個別の情報については、各見出しに出典を明記しています。「なぜ現金ではなく紙製品と交換したのか」という点については、確実性の高い一次資料での裏付けが得られなかったため、断定を避けて記載しています。ちり紙交換の開始時期(昭和39年)については、ナカノ株式会社の記事を出典としており、より上位のTierでの裏付けは確認できていません。

ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。