ミシンの歴史とは?足踏みミシンから家庭用電動ミシンまで

公開日:2026年9月10日 更新日:2026年9月12日

昭和の居間で、母親が足踏みミシンを使って服を縫う場面のイメージ画像です。特定の企業・製品の再現ではありません。

※AIによるイメージ画像です

足踏み式のペダルを踏むたびに、コトンコトンと音を立てて針が上下していたミシン。母親が子どもの服を縫う姿を、そばで見ていた記憶はありませんか。

家庭用ミシンがいつ日本へ伝わり、どのように普及し、なぜ家庭で使われる機会が減っていったのかをたどります。

ミシンとは?日本への伝来と国産化への挑戦

「ミシン」という名前、実は日本語ではありません。語源由来辞典によれば、「縫う機械」を意味する英語「sewing machine(ソーイング・マシン)」のうち、「machine(マシン)」の部分が転訛した言葉だとされています。カタカナ語のようでいて、実は英単語の一部がなまって定着した名前だったことになります。

その名のとおり、ミシンは布に糸を通して縫い合わせる作業を機械の力で行う裁縫道具です。手縫いでは時間のかかる作業を、針の上下運動と糸の送り出しによって素早くこなせることが最大の特徴でした。

出典:語源由来辞典「ミシン」

ペリー献上から輸入ミシンの時代へ

日本にミシンが伝わった最も古い記録は、1854年(嘉永7年)にペリーが2度目に来航した際、将軍家へ献上したことだと伝えられています。

その後、明治時代に入ってから輸入ミシンが少しずつ広まり、シンガー社(米国)が横浜・神戸に店舗を構えるなどして、日本国内での認知が進んでいきました。1920年代当時、日本で使われているミシンの9割以上が輸入品で、国産ミシンは実質的に存在していませんでした。

ブラザーとジャノメ、国産化を競った2社

man@bowまなぼうの記事によれば、名古屋の安井ミシン商会(1908年創業)を継いだ安井正義(やすい まさよし)は「ミシンを国産化し、輸入産業を輸出産業に変えたい」という思いから開発に取り組み、1927年に国産第1号機を完成させ、翌1928年に発売、これが後の「ブラザー」ブランドの始まりになったと伝えられています。

国産化に挑んだのはブラザーだけではありません。

JANOMEコーポレートサイトによれば、日本初の国産ミシンメーカーとされる蛇の目(じゃのめ)ミシン工業は1921年(大正10年)に創業し、1929年(昭和4年)にはボビンの形が家紋の「蛇の目」に似ていたことにちなんだ「蛇の目式」の家庭用本縫いミシンを開発しました。

1936年(昭和11年)には国産初となる量産工場が稼働しています。

複数のメーカーがしのぎを削りながら技術を高めていったことが、その後の家庭への普及を支えていったと考えられます。

出典:man@bowまなぼう「先駆者たちの大地:ブラザー工業株式会社 創業者 安井正義」/JANOMEコーポレートサイト「ジャノメの歴史」

学校教育の中のミシン

ミシンは家庭だけでなく、学校教育の中にも早くから取り入れられていました。戦前の高等小学校では、すでにミシンを使った裁縫の教材が採用されていたと伝えられています。

内閣府男女共同参画局の資料によれば、戦後の学習指導要領の整備を経て、昭和33年(1958年)告示の学習指導要領では、中学校の技術・家庭科において「女子向き」の内容として被服製作が位置づけられ、ミシンを使った授業が女子を中心に広く行われるようになりました。

この体制は長く続きましたが、1989年(平成元年)の学習指導要領改訂によって中学校の技術・家庭科は男女共修となり、1990年度からは性別に関わらずミシンを使った被服製作の授業を受けるようになったと伝えられています。

長く「女子向き」の内容とされてきたことは、当時の社会が家事や裁縫を女性の役割とみなす傾向にあったことの表れでもあり、男女共修化はそうした役割分担が見直されていく過程とも重なる出来事だったといえます。

学校でミシンを教える意味は、単に裁縫の技能を身につけさせることだけでなく、針に糸を通し、布を合わせ、手順どおりに縫い上げるという一連の作業を通じて、集中して丁寧に取り組む姿勢を学ぶ機会でもあったと考えられます。家庭科の授業で初めてミシンに触れ、まっすぐ縫うことの難しさに苦労した記憶を持つ人も多いのではないでしょうか。

出典:内閣府男女共同参画局「コラム2 学習指導要領における技術・家庭、保健体育の変遷」

学校の家庭科の授業で、児童がミシンを使って布を縫う場面のイメージ画像です。特定の学校・製品の再現ではありません。
※当時の雰囲気をもとにAIで作成したイメージ画像です

戦後、嫁入り道具の定番になったミシン

ミシンが家庭に広く浸透する大きな転機になったのは、終戦後の時期でした。既製の衣料品がまだ高価だったこともあり、布と型紙を買って自宅で洋服を仕立てることが一般的で、洋裁の技術とミシンは若い女性にとって欠かせない教養のひとつとされていました。

1955年時点では、女子の高校卒業者数32万人に対し、洋裁学校の生徒数は50万人にのぼっていたとされ、洋裁を学ぶ女性がいかに多かったかがうかがえます。

MONEY PLUSの記事によれば、1970年前後には、ミシンを嫁入り道具として持つことが広く定着し、その年の婚姻件数とミシンの生産台数がほぼ同じ水準だったとされるほど、ミシンは結婚と結びついた存在でした。

嫁入り道具としてミシンが選ばれたのは、単なる持参品というだけでなく、嫁いだ先の家庭で家族の衣類を仕立て、繕う力量を示す道具でもあったからだと考えられます。婚姻件数とミシンの生産台数がほぼ同じ水準だったという事実は、両者の間に何らかの結びつきがあったことをうかがわせますが、実際にすべての結婚でミシンが用意されていたかどうかまでを示すものではありません。

1961年には、モーターを内蔵したポータブル型の電気ミシンも発売され、足踏み式に代わって家庭に広まっていきました。

出典:MONEY PLUS「アナタの知らない『ミシン大国ニッポン』の実情」

昭和の家庭で、母親が足踏みミシンを使って子どもの服を縫う場面のイメージ画像です。特定の企業・製品の再現ではありません。
※当時の雰囲気をもとにAIで作成したイメージ画像です

直線縫いから、ジグザグ縫いへ

ミシンの機能そのものも、時代とともに進化していきました。初期のミシンの多くは、針をまっすぐ上下させて布を縫い合わせる「直線縫い」だけの機能でしたが、電動化が進むにつれて、針を左右に振りながら縫う「ジグザグ縫い」に対応した機種が広まっていきました。

中日本ジューキの解説によれば、ジグザグ縫いは布の端がほつれるのを防ぐ処理や、伸縮性のある生地を縫い合わせる際などに使われる縫い方で、直線縫いだけでは難しかった仕上げが可能になったとされています。

直線縫いしかできない時代は、ほつれ止めの処理を手縫いで補ったり、伸び縮みする生地の扱いを避けたりと、仕立てられる衣類の種類にも制約がありました。ジグザグ縫いという機能が家庭用ミシンに加わったことで、そうした制約の一部が解消され、伸縮性のある生地を使った衣類など、それまでは仕立てにくかったものも扱いやすくなったと考えられます。

こうした機能の広がりによって、家庭用ミシンはより幅広い衣類や布小物を仕立てられる道具へと進化していきました。

ブラザー工業公式によれば、1979年には国内メーカー初のマイコン搭載ミシン「オーパス8」が発売され、模様選択や針の位置停止、縫い速度の調整などをマイコンで制御する、いわば「コンピューターミシン」の先がけとなりました。同社によれば、オーパス8は一般家庭にコンピューターミシンが広まるきっかけになった製品として評価され、2024年9月には国立科学博物館の「未来技術遺産」にも登録されています。ペダルを足で踏んで速さを加減していた時代から半世紀ほどで、ミシンは自らボタンひとつで模様や速度を選べる道具へと姿を変えたことになります。

出典:家庭用ミシンの中日本ジューキ「縫い目の種類と用途」/ブラザー工業公式プレスリリース「コンピューターミシン『オーパス8』が『未来技術遺産』に登録」

家庭で服を縫っていた日常

電源を入れなくても、足さえ動かせば布を縫える。足踏みミシンのそんな仕組みを、当たり前のものとして見ていた人も多いはずです。JANOME公式によれば、「はずみ車」と呼ばれる大きな金属の輪を手前に回すことで、針が上下に動く仕組みになっています。愛好家による解説サイト(アンティークミシンblog.)によれば、足踏みミシンではこのはずみ車を、ペダルを前後に踏む動きが連結棒を通じて回転させ、その回転がベルトを介して針のついた部分へ伝わっていたとされています。足の力だけで、糸を通した針を規則正しく動かし続けられるという点は、電気に頼らない道具ならではの面白さでした。

1970年代半ばくらいまでは、家族の服を自分で仕立てたり、既製品を直したりするために、日常的にミシンを使っている母親は珍しくありませんでした。子どもの学校の体操着袋や上履き入れ、給食用のランチョンマットなどを手作りする家庭科の課題でも、ミシンは身近な道具でした。

ペダルを踏むリズムに合わせて針が上下し、布が少しずつ縫い合わされていく様子を、そばで見ていた記憶を持つ人も多いのではないでしょうか。

壊れたズボンの裾や取れたボタンをその場で直してくれる、暮らしの中の頼れる道具でもありました。

ミシンは居間や茶の間の片隅に置かれ、使わないときは木製のカバーをかけて家具のように収められていることも多くありました。何かを縫う日になると、そのカバーを外し、糸巻きに糸を通し、布を型紙に合わせて裁つところから作業が始まります。

子どもにとっては、母親がミシンに向かっている時間は静かで集中した特別な時間であり、できあがった服や小物を身につけるときの誇らしさとともに記憶されていることが多いようです。

既製服が今のように安くどこでも手に入る時代ではなかったからこそ、家庭で服を仕立て直す・繕うという作業は特別な趣味ではなく、家計を支えるための実務的な家事のひとつだったと考えられます。

出典:JANOME公式「ミシンの各部の名称について教えてください」/アンティークミシンblog.「アンティークミシンの部品とその名称」

既製服の普及とともに、家庭から遠ざかったミシン

1970年代後半以降、家庭でミシンを使う機会が少しずつ減っていった背景には、既製服の急速な普及がありました。ホームメイトの記事によれば、日本で既製服が本格的に広まったのは1960年代の高度経済成長期で、それ以前の1950年代前半までは紳士服・婦人服とも和服と同様に注文仕立てが主流だったとされています。

戦前の既製服は軍隊・官公庁職員・日赤看護婦・女学生などの制服が中心で、成人女性の普段着として広く着られた既製服は「アッパッパ」と呼ばれた夏用の家庭着程度だったと伝えられています。

戦後、アメリカからの援助物資を通じて欧米の既製服に触れたことや、ナイロン・ポリエステルといった新しい合成繊維の登場が服装観を変え、高品質な既製服が安く手に入るようになると、わざわざ自宅で服を仕立てる必要性は徐々に薄れていきました。

家庭でミシンを使う機会は、子どもの手芸や補修作業など限られた場面へと少しずつ縮小していきました。それでもミシンという道具自体がなくなったわけではなく、現在も一般社団法人日本縫製機械工業会に加盟する国内メーカーが、家庭用から工業用まで幅広いミシンを製造し続けています。

「自分で作る」ことが当たり前だった時代から「買う」ことが当たり前になった時代への移り変わりは、家庭の中の時間の使い方にも影響を与えたと考えられます。

服を仕立てる手間が減った分、他の家事や仕事に時間を割けるようになった一方で、家庭でミシンを使う機会そのものは限られたものになっていきました。

ペリーへの献上品として日本に渡り、「マシン」がなまって「ミシン」と呼ばれるようになった一台の裁縫道具は、足踏み式から電動、そしてコンピューター制御へと姿を変えながら、150年以上にわたって日本の暮らしの中に居場所を持ち続けてきたことになります。

出典:ホームメイト「アパレルショップの歴史」

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出典・注意事項

本ページは、man@bowまなぼう、MONEY PLUS、内閣府男女共同参画局、家庭用ミシンの中日本ジューキ、ホームメイト、JANOMEコーポレートサイト、語源由来辞典、アンティークミシンblog.、ブラザー工業公式プレスリリースの記事をもとに構成しています。個別の情報については、各見出しに出典を明記しています。

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