スーパーマーケットはどう日本に広がった?対面販売からセルフサービスへ
公開日:2026年9月26日

※AIによるイメージ画像です
店員に頼んで商品を出してもらう買い物から、自分で選んでかごに入れ、レジでまとめて精算する買い物へ。
この当たり前になった買い物の形が、いつ・どのように広がっていったのかを、複数の資料からたどります。
対面販売とセルフサービス、何が違うのか
それまでの八百屋・魚屋・肉屋では、客が店員に欲しいものを伝え、店員が選んで手渡すという対面のやり取りが買い物の基本でした。セルフサービスは、客が自分の手で商品を選び、最後にレジでまとめて精算するという、まったく異なる仕組みです。
対面販売では、店員との会話そのものが買い物の一部でした。今日は何がおすすめか、どれくらいの量が良いか、といったやり取りを経て商品が決まります。セルフサービスは、この会話を挟まずに、客が自分の判断だけで買い物を完結できるようにした点で、買い物という行為の性格そのものを変えたといえます。

いつ、どこで生まれた?複数の説
紀ノ国屋公式によれば、同社は1953年11月、東京・青山の店を対面販売からセルフサービス方式へ転換しました。買い物カートやクラフト紙のショッピングバッグをアメリカから導入したとされています。
全国スーパーマーケット協会は、この紀ノ国屋の転換を「日本最初のセルフサービス店」と位置づけています。
一方、ダイヤモンド・チェーンストアオンラインによれば、1956年、北九州市小倉に開業した「丸和フードセンター」は、生鮮三品を含む食料品を大量仕入れ・大量販売する、より本格的な業態だったと評価されています。
「セルフサービスという販売方式を最初に採用した店」と「食料品全般を大量に安く売る業態を確立した店」は、それぞれ異なる観点での「最初」です。「日本初のセルフサービス店」と「日本初のスーパーマーケット」は、業態の定義によって答えが変わる問いであり、どちらか一方に単純に断定することはできません。
「セルフサービス」という販売方式と、「スーパーマーケット」という業態は、重なる部分は大きいものの、厳密には同じ言葉ではありません。1つの新しい販売方式が、複数の店によってそれぞれ異なる形で発展させられ、後になって「スーパーマーケット」という1つの業態として認識されるようになった、という見方が実情に近いと考えられます。
出典:紀ノ国屋公式「紀ノ国屋の歴史」/一般社団法人全国スーパーマーケット協会「協会沿革」/ダイヤモンド・チェーンストアオンライン「日本で初めてスーパーを創業した吉田日出男物語」
セルフサービスはどんな仕組みだったのか
セルフサービス化にともなって必要になったのが、複数の商品をまとめて持ち運ぶための買い物かご(のちのカート)と、選んだ商品を最後にまとめて会計するレジという仕組みです。
客が店内を自由に回って選び、最後の1か所で精算する。この「選ぶ場所」と「支払う場所」を分ける発想が、対面販売にはなかった新しい買い物の型を作りました。
紀ノ国屋公式によれば、この転換にあわせてアメリカから買い物カートやクラフト紙のショッピングバッグが導入されたとされています。仕組みだけでなく、それを実際に運用するための道具も、あわせて輸入する必要があったことになります。
なぜスーパーは安かったのか
ダイヤモンド・チェーンストアオンラインによれば、丸和フードセンターは大量仕入れ・大量販売によって、月商200万円という規模を実現したとされています。同社の創業者・吉田日出男氏は、日本NCRの経営指導を受けながら、この新しい経営手法を導入していったとされています。
複数店舗分をまとめて仕入れることで仕入れ値を下げ、対面接客に必要だった人件費を圧縮した分を価格に反映する。この考え方は、それまでメーカーや問屋が握っていた価格の決め方に対し、スーパー側が発言力を持つきっかけにもなっていきました。
1店舗ごとに個別に交渉していた頃の商店とは異なり、複数の店舗をまとめて経営することで、仕入れの規模そのものを大きくできる。この規模の力を最初に活用した店の1つが、丸和フードセンターだったといえます。
商店街の個々の店では、1店舗が仕入れる量には限りがあり、価格の交渉力もおのずと小さくなります。複数の店舗をまとめて経営し、まとまった量を一度に仕入れるという発想が、これまでの流通の力関係を少しずつ変えていったことになります。
果物中心だった紀ノ国屋のセルフサービス化と比べ、丸和フードセンターが挑んだのは、青果・鮮魚・精肉という「生鮮三品」を含む食料品全般をセルフサービスで扱うことでした。日持ちしにくく、品質の見極めが難しい生鮮食品を、対面での説明なしに客が自分で選べるようにすることは、果物を売る以上に難しい課題だったと考えられます。
「主婦の店」という名前が広めた買い物の形
ダイエー公式によれば、同社は1957年9月23日、大阪市旭区千林に「主婦の店ダイエー薬局」1号店を開店しました。「主婦の店」という店名を掲げたスーパーは、この時期複数登場したとされています。
日々の買い物を担っていた主婦層に向けて「主婦のための店」を前面に打ち出したこの動きは、安さと選ぶ自由という新しい買い物の価値を、家庭に直接訴えかけるものでした。「主婦の店」という店名は、当時の家庭で誰が日々の買い物を担っていたかを、そのまま反映した名づけ方だったともいえます。
ここで少し意外なのは、「主婦の店」が別々の経営者による偶然の一致ではなかったという点です。ダイヤモンド・チェーンストアオンラインによれば、丸和フードセンターの吉田日出男氏は1957年、「主婦の店」を共通の名前として掲げるボランタリーチェーン(店ごとの独立性を保ちながら、名前や仕入れ・経営の仕組みを共有する共同体)を立ち上げ、同年のうちに8店、1958年末には27店まで加盟店を増やしたとされています。各地の「主婦の店」は、1つの店が思いついた工夫がたまたま似ていたわけではなく、同じ旗のもとに次々と加盟していった結果だったことになります。
ところが、この1つの旗はそう長くは保ちませんでした。同じダイヤモンド・チェーンストアオンラインによれば、1958年8月、吉田氏を中心とする「風車グループ」と、大木清太郎氏を中心とする「公開経営グループ」に分裂したとされています。旗を掲げてからわずか1年半ほどで、早くも運営方針の違いが表に出ていたことになります。
スーパーは全国でどれくらいの数まで増えたのか
紀ノ国屋や丸和フードセンター、「主婦の店」のような個別の店・運動の話だけでなく、業界全体で見たときの増え方も見ておく価値があります。
法政大学産業情報センターのワーキングペーパー(経済産業省の商業統計調査の長期時系列データを分析したもの)によれば、スーパーマーケットに近い業態の店舗数は、1962年の134店から、1972年には1,643店へ増えています。
10年で単純計算すると、およそ12倍という増え方です。1店ずつ着実に増えたというより、短い期間で業態そのものが一気に広がっていったことがうかがえます。この10年は、日本が高度経済成長期のただ中にあった時期にも重なります。所得が増え、家庭の消費が広がっていく社会の変化と、セルフサービスという新しい買い物の形の広がりは、同じ時代の流れの中で重なり合っていたことになります。
商業統計の業種分類は時期によって見直されており、統計上の区分がスーパーマーケットという業態と1対1で完全に一致するわけではありません。それでも、この時期に店舗数が大きく伸びたこと自体は、紀ノ国屋の転換や「主婦の店」運動の加盟店の増え方といった個別のエピソードと同じ方向を示しています。
商店街との違い、流通の変化
商店街は、八百屋・魚屋・雑貨店といった専門店がそれぞれ別の場所で対面接客する形態でした。これに対しスーパーは、1つのレジで食品から日用品までまとめて買える場を提供しました。
店主と顔を合わせて世間話をしながら選ぶ買い物から、レジで会計を済ませるだけの買い物へ。この変化は、地域での何気ないコミュニケーションのあり方にも、少しずつ影響を与えていったと考えられます。
とはいえ、商店街がすぐにすべてスーパーに置き換わったわけではありません。日々のちょっとした買い物は近所の商店で、まとめ買いは少し足を延ばしてスーパーで、という使い分けをしていた家庭も多かったはずです。2つの買い物の形が並び立つ時期を経て、徐々にスーパーの存在感が大きくなっていった、というのが実際の流れに近いと考えられます。
買い物かごからレジ袋へ、そして今のスーパーへ
「自分で選ぶ」という体験を初めて店に持ち込んだ紀ノ国屋の転換から、「大量に安く売る」という業態を確立した丸和フードセンターやダイエーの挑戦まで、複数の店の取り組みが積み重なって、今のスーパーマーケットという業態が形づくられていきました。
対面で頼んで出してもらう買い物から、自分でかごを持って選ぶ買い物へ。この変化は、日々の食卓を支える買い物のあり方そのものを、大きく変えた出来事だったといえます。
毎日の買い物を担っていた家庭にとって、スーパーが加えたのは単なる安さだけではありませんでした。店員に伝える手間なく、自分の判断で選べる自由。一度に必要なものをまとめて買える効率。それまで複数の専門店を回っていた買い物が、1つの店で完結するようになったことは、日々の家事にかかる時間そのものを見直す出来事でもあったと考えられます。
紀ノ国屋がアメリカから買い物カートを輸入したように、この時期の日本は、海外の新しい仕組みを取り入れながら、自分たちの生活に合わせて作り直すということを、さまざまな分野で繰り返していました。スーパーマーケットという業態も、そうした時代の中で形になっていった1つの例だったといえるでしょう。
今、買い物かごを持って商品棚を眺め、レジで会計を済ませるという何気ない行動の型は、こうした複数の店の挑戦が積み重なって、ようやく定着したものでした。対面でのやり取りが基本だった時代には、それ自体がまだ新しい買い物の作法だったことになります。当たり前になった買い物の作法の裏に、こうした歴史があったことを、たまに思い出してみるのも良いかもしれません。
この記事で見てきた広がり方は、実は一本道ではありません。紀ノ国屋や丸和フードセンターのように、それぞれ別の場所で独立して挑戦した店もあれば、「主婦の店」のように1つの旗のもとへ次々と加盟が集まり、その旗自体がわずか1年半ほどで分裂してしまった運動もありました。独立した挑戦と、共同の運動、そして商業統計が示す業界全体の急な伸び。この3つが同じ10年ほどの時間に重なっていたことが、対面販売からセルフサービスへという変化を、思った以上に早く全国へ広げた理由だといえます。
「どこが最初だったか」という問いよりも、「独立した挑戦と、1つの旗のもとに集まった運動が、なぜ同じ時期に同じ方向へ進んでいったのか」という問いの方が、この時代の買い物の変化を理解する上で、より本質的な意味を持っているのかもしれません。今日の買い物かごの中身も、そうした複数の道筋の積み重ねの上に成り立っているのです。
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別の小売の業態についてはセブン-イレブン日本1号店の記憶でもたどれます。訪問型の商売については瓶牛乳配達の記憶やちり紙交換の記憶でも確認できます。
あなたが子どもの頃の買い物事情は?
生まれ年を選ぶと、あなたが子どもだった頃の年代・年齢帯にまつわるページへのリンクを表示します。
これ覚えてる?
学校・地域・年代によって内容は異なります。あなたの記憶と重なるものはありますか?
- 近所のスーパーができたときのことを覚えていますか?
- 商店街とスーパー、買い物の仕方の違いを覚えていますか?
- 買い物かごを持って店を回った記憶はありますか?
出典・注意事項
本ページは、紀ノ国屋公式サイト、全国スーパーマーケット協会公式サイト、ダイヤモンド・チェーンストアオンライン、ダイエー公式サイト、法政大学産業情報センターのワーキングペーパー(経済産業省の商業統計調査の分析)の記載内容をもとに構成しています。「日本初のセルフサービス店」と「日本初のスーパーマーケット」は業態の定義によって議論の余地があるため、同一の意味として断定していません。日本セルフ・サービス協会の会長(1958年の増井徳男氏、2001年の増井徳太郎氏)は別の人物として扱っています。同志社大学人文科学研究所の学術論文(吉田日出男・中内功に関する研究)は、PDF内の日本語がCID埋め込みフォントで復号できず本文を直接確認できなかったため、出典として使用していません。
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