都電はなぜ姿を消した?路面電車が走っていた東京の風景

公開日:2026年9月10日 更新日:2026年9月12日

昭和30年代の東京、都電が走る商店街の通りのイメージ画像です。特定の路線・車両の再現ではありません。

※AIによるイメージ画像です

自動車の間を縫うように、道路の真ん中を路面電車が走っていた時代がありました。

東京の街を網の目のように結んでいた「都電」が、なぜ多くの路線を廃止し、荒川線だけが今も走り続けているのかをたどります。

都電とは?東京の街を結んだ路面電車

都電とは、東京都交通局が運営していた路面電車の愛称です。道路の上に敷かれた軌道を、自動車やバスと同じ道路空間を共有しながら走る乗り物でした。

荒川線の前身にあたる王子電気軌道(おうじでんききどう)は1930年(昭和5年)に面影橋(おもかげばし)・早稲田間の開業によって現在の路線が完成し、1942年(昭和17年)に東京市へ統合、翌1943年(昭和18年)の都制施行にともなって「都電」と改められたと伝えられています。

全盛期にはどれほどの路線があった?

東京都交通局によれば、最盛期の昭和18年(1943年)度には41系統・総延長213km、一日平均193万人もの乗客が利用する、東京の街を隅々まで結ぶ大動脈でした。当時、地下鉄の路線網はまだごく一部にとどまり、路線バスも都電ほど密には整備されていなかったため、都電は多くの人にとって最も身近で、かつ他に代わりのない公共交通機関でした。

41という系統数は、単純に路線が多かったというだけでなく、山手線の内側からその外側まで、東京のほぼ全域を網の目のように覆っていたことを意味していました。地下鉄・バスの整備がまだ十分でなかった当時、多くの人が日常の移動の大部分を都電に頼っていたと考えられます。

出典:東京都交通局公式サイト「都電荒川線」

どんな乗り物だった?乗り方と運賃

都電は、前方の扉から乗り込み、運賃を先に支払ってから車内へ進む「前乗り前払い」の方式が基本でした。運賃を入れる箱や、車掌がいる場合は車掌へ直接手渡す形で支払いが行われていました。

さくらたび。の記事によれば、参考になる荒川線の記録として、1974年(昭和49年)の荒川線発足時点の運賃は大人50円・小児30円で、それ以前は「小児運賃」という区分自体が存在せず、子どもも大人と同額を支払っていたものが1973年(昭和48年)にようやく区別されるようになったとされています

また1956年(昭和31年)には、通常往復25円のところを20円で利用できる早朝割引制度も設けられていたと伝えられています。運賃ひとつをとっても、時代とともに制度が少しずつ整えられていった様子がうかがえます。

出典:さくらたび。「都電荒川線の運賃・制度の歴史」

路面を埋め尽くした「東京の足」

終戦から高度経済成長期にかけて、都電は復興していく東京の街を隅々まで結ぶ「足」として機能していました。日本橋や新宿駅前、銀座通りといった繁華街の真ん中にも当たり前のように軌道が敷かれ、路面電車が行き交う光景が広がっていました。

東洋経済オンラインの記事によれば、当時の都電は単なる移動手段であるだけでなく、街の風景そのものを形づくる存在でもあったとされています。買い物客や通勤客、学校帰りの子どもたちが同じ車両に乗り合わせ、混み合う車内で吊り革につかまりながら、次の停留所の名前を車掌の声で聞き分ける。

信号待ちのたびに自動車と並んで止まり、また同時に発車していく。そうした都電のリズムが、街の日常そのものに溶け込んでいました。

出典:東洋経済オンライン「昭和の東京を縦横無尽に走った「都電」の記憶」

昭和30年代の東京、自動車と併走する都電の停留所で電車を待つ人々のイメージ画像です。特定の路線・車両の再現ではありません。
※当時の雰囲気をもとにAIで作成したイメージ画像です

車掌が乗り込んでいた頃の都電

廃止が進む前の都電の多くは、運転士のほかに車掌が乗り込む二人乗務が基本でした。車掌は運賃の収受や車内放送、乗り降りの安全確認といった仕事を担い、混み合う車内を縫うように移動しながら切符を切っていました。

唯一存続した荒川線では、1977年(昭和52年)10月からワンマン運転(運転士一人で運行し、運賃収受も担う方式)の導入が始まり、1978年(昭和53年)4月には全便がワンマン化されたと伝えられています。運転士がひとりで運転・運賃収受・車内放送のすべてをこなすワンマン運転に対し、車掌が乗務していた時代は、運賃の収受や安全確認を専任の係員が担っていた分、乗客と乗務員が言葉を交わす機会も生まれやすい体制だったと考えられます。

このワンマン化にあわせて姿を変えたのが車両そのものでした。1954年(昭和29年)に登場した「7000形」は、1977年から78年にかけて車体を新調し、前面1枚窓の直線的なデザインへ生まれ変わりました。荒川線の顔として60年以上走り続けたこの7000形は、2017年6月に営業運転を終えましたが、姿を消したわけではなく、足回りなどを大幅に改修した「7700形」として現在も荒川線を走り続けています。一台の車両が、時代に合わせて中身を新しくしながら生き延びてきたことになります。

出典:乗りものニュース「都電 荒川線だけなぜ残ったか」/「東京都交通局7000形電車」Wikipedia

なぜ都電は姿を消したのか

1960年代の日本は、自動車の急速な普及(モータリゼーション)によって、都市の道路事情そのものが大きく変わっていった時代でした。都電もこの変化と無縁ではいられませんでした。

都電と自動車が同じ道路を並んで走る昭和40年代前後の東京の街並みのイメージ画像です。特定の路線・車両の再現ではありません。
※当時の雰囲気をもとにAIで作成したイメージ画像です

自動車が増えると何が起きたか

昭和30年代後半から40年代にかけて、都電の軌道敷内へも自動車が乗り入れるようになったことで、定時運行が著しく難しくなっていきました。線路をふさぐように停まる自動車、渋滞に巻き込まれて動けなくなる電車という悪循環が、都電のスピードと定時性という長所を奪っていったのです。

1967年(昭和42年)に東京都交通局が財政再建団体の指定を受けたことも重なり、路線の廃止が加速しました。昭和42年から47年にかけて、合計181kmもの都電の路線が東京の路上から姿を消していきました。高度経済成長期の東京では、マイカーの普及と物流トラックの増加が同時に進み、限られた道路空間を電車・自動車・歩行者が奪い合うようになっていきました。

道路の上を走るという都電の長所(建設費が地下鉄より安く済み、街のどこにでも軌道を敷けること)は、そのまま自動車と道路を共有せざるを得ないという弱点にもなっていたのです。都電の廃止は、単なる一交通機関の縮小ではなく、東京の道路を誰が優先的に使うのかという、都市そのものの姿が変わっていく過程を映す出来事だったといえます。

出典:東京都交通局公式サイト「都電荒川線」

銀座線廃止という象徴的な出来事

象徴的だったのが、新橋から数寄屋橋を経て都心を貫いていた「銀座線(本通線)」の廃止です。nippon.comの記事によれば、この路線は1967年12月に廃止され、都心の一等地から路面電車が姿を消したことは、当時の人々に「都電の時代の終わり」を強く印象づける出来事だったと伝えられています。

1972年(昭和47年)11月12日には第七次撤去が実施され、早稲田・王子駅前・三ノ輪橋を結ぶ区間を残すのみとなりました。

出典:乗りものニュース「都電 荒川線だけなぜ残ったか」/nippon.com「〈1967年の今日〉12月9日 都電銀座線ラストラン」

荒川線だけが生き残った理由

多くの路線が廃止される中、三ノ輪橋から早稲田までを結ぶ区間(現在の荒川線)だけは、その後も走り続けました。

専用軌道という条件

乗りものニュースの記事によれば、この区間の約9割が道路と分離された専用軌道であり、自動車の増加による渋滞の影響を受けにくかったことが、存続の大きな理由とされています。並行する道路が乏しく、バスによる代替輸送が難しかったことも重なりました。

出典:乗りものニュース「都電 荒川線だけなぜ残ったか」

沿線住民の要望と永久存続の決定

沿線住民からの強い存続要望があったことも重なり、1974年(昭和49年)に永久存続が決定し、「荒川線」という呼称が正式に採用されました。

東京にかつて路面電車が走っていたという歴史を、ひとつだけでも残しておきたいという思いも、存続を後押ししたと伝えられています。2つの系統を合わせて10万人を超える利用者がいたことも、存続を判断する材料のひとつになったとされています。

全廃ではなく一部存続という結果は、東京の交通が完全に自動車中心へ切り替わったわけではなく、道路事情や地域の実情に応じて路面電車も生き残れる場合があることを示した事例だといえます。

「荒川線」という呼び名に、もうひとつ名前が加わったこともあります。J-CASTニュースによれば、東京都交通局は2017年4月、公募の結果「東京さくらトラム」という愛称を新たに発表しました。ただし同記事によれば、命名から3年半が経っても「都電荒川線」という呼び方と並んで使われ続けており、愛称が定着しているかどうかは微妙なところだと紹介されています。新しい名前をつけても、長年親しまれてきた呼び方はそう簡単には置き換わらないようです。

出典:東京都交通局公式サイト「都電荒川線」/J-CAST ニュース「『東京さくらトラム』命名3年半でも定着せず」

廃止された路線は、どうなったのか

廃止された都電の路線の多くは、都営バスの路線に置き換えられました。廃止から代替バスの運行までの移行がスムーズに進むよう、運賃や運行時間を工夫しながら都営バスへの乗り換えを促す取り組みが行われていたと伝えられています。電車の線路がそのまま道路に転用され、軌道の跡地がバス専用レーンや一般の車道として使われるようになった区間も少なくありません。

路面電車の縮小は、東京だけの出来事でもありませんでした。同じ昭和30年代後半から40年代にかけて、自動車の増加と道路渋滞という同様の事情から、全国各地の都市でも路面電車路線の廃止が進んでいったとされています。

都電のケースは、こうした全国的な流れの中でも特に路線規模が大きく、廃止の経緯が詳しく記録されている代表的な例のひとつといえます。本ページでは、東京都交通局という一次資料が豊富に残る「都電」に焦点をしぼって、その全盛期から現在までをたどります。

出典:東京都交通局公式サイト「都電荒川線」

道路の真ん中を電車が走っていた記憶

信号待ちの自動車の間を、ゆっくりと路面電車がすり抜けていく。停留所には屋根もベンチもなく、道路の真ん中に白線で区切られた小さなスペースがあるだけだったことも珍しくありませんでした。

発車のたびに車体が小さく揺れ、レールのつなぎ目を越えるごとに「ガタン、ガタン」という音が車内に響く。窓の外には、自動車と歩行者、自転車が入り混じる昭和の街並みが流れていきました。

今では地下鉄やバスに乗り換えるのが当たり前になった移動も、かつては道路そのものを走る電車が担っていました。

学校帰りに友だちと乗り込んで数駅先の駄菓子屋まで足を延ばしたり、買い物帰りの荷物を抱えた大人が吊り革につかまって揺られたりと、都電は特別な乗り物ではなく、歩くには少し遠く、タクシーを使うほどでもない距離を埋める、暮らしの一部でした。

停留所ごとに聞こえる「発車します」という車掌の声、次の停留所名を告げる案内、そうした音の記憶とともに都電は語り継がれています。都電は、自動車社会へと変わっていく前の東京の街の姿を伝える記憶です。

41系統あった路線のほとんどが姿を消した今も、荒川線の線路の上では、形を変えた7000形が「東京さくらトラム」という新しい名前とともに走り続けています。呼び名は変わっても、道路の真ん中を電車が走るという東京の風景そのものは、まだ完全には途切れていないようです。

あわせて読みたい

同じ頃の駅・線路にまつわる記憶は改札鋏の記憶や踏切番の記憶でもたどれます。

あなたが子どもの頃の東京の交通は?

生まれ年を選ぶと、あなたが子どもだった頃の年代・年齢帯にまつわるページへのリンクを表示します。

生まれ年の入力方法

これ覚えてる?

学校・地域・年代によって内容は異なります。あなたの記憶と重なるものはありますか?

  • 都電に乗った記憶、または街を走る都電を見た記憶はありますか?
  • 自宅や通学路の近くに都電の線路があった記憶はありますか?
  • 廃止される前後の都電について、家族から話を聞いたことはありますか?

出典・注意事項

本ページは、東京都交通局公式サイト、乗りものニュース、東洋経済オンライン、nippon.com、さくらたび。、J-CASTニュース、Wikipedia「東京都交通局7000形電車」の記事をもとに構成しています。個別の情報については、各見出しに出典を明記しています。都電システム全体の発祥時期や銀座線廃止の正確な日付については情報源間で表記に幅があるため、月単位の表現に留めています。

ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。