昭和の給食|懐かしいメニューと小学校の思い出

公開日:2026年8月30日 更新日:2026年9月12日

昭和の給食時間をイメージしたAI生成画像

※AIによるイメージ画像です

コッペパンや脱脂粉乳、机を向かい合わせにして食べた時間。昭和の給食は、実は貧しい子どもへの食事から始まり、戦後の栄養不足を補う制度へ、そして今の多様な献立へと役割を変えてきました。あなたの生まれ年・小学生時代と重ねながら振り返ってみませんか。

給食のうつりかわり

① 明治に始まり、一度は途切れた給食の起源

「給食はいつから始まったのか」と聞かれると、多くの人は戦後の脱脂粉乳を思い浮かべるかもしれません。ですが、学校給食の歴史はもっと古くまでさかのぼります。

全国学校給食推進連合会によれば、1889年(明治22年)、山形県鶴岡町の私立忠愛小学校で貧しい家庭の子どもに無料で食事を出したことが、日本の学校給食の起源とされています。当時の食事は、おにぎり・塩鮭・菜の漬物というものでした。

この取り組みは各地へ少しずつ広がり、同連合会によれば昭和19年(1944年)には6大都市の小学校児童約200万人が給食の対象になっていたとされています。

一方、独立行政法人国立公文書館アジア歴史資料センターの解説では、戦時中は栄養不足の児童向けに食事が配られることはあっても、国としての制度は確立されていなかったと説明されています。

1889年の鶴岡町の取り組みも、あくまで1つの私立小学校が貧困児童を対象に始めた取り組みであり、全国一律の制度として最初から整っていたわけではありません。給食は、1つの学校の慈善的な取り組みから、戦時下の一時的な広がりを経て、戦後にあらためて全国共通の制度として立て直されていくことになります。

出典:全国学校給食推進連合会/独立行政法人国立公文書館アジア歴史資料センター「学校給食っていつからあるの?」

② 戦後、支援物資から再開した学校給食

今では当たり前のようにある学校給食ですが、戦後は焼け跡からの再出発でした。

nippon.comの記事によれば、1946年(昭和21年)12月24日、東京・神奈川・千葉の3都県で試験的に再開した給食は、アメリカの民間団体LARA(アジア救援公認団体)からの寄贈物資が支えていました。最初のメニューは、脱脂粉乳を溶かしたミルクとトマトシチューだけだったとされています。

この最初の給食が、援助物資を基に組み立てられていたように、戦後まもなくの給食で何が使われるかは、そのとき届いた支援物資に左右される面がありました。

その後、1949年にはユニセフから寄贈された脱脂粉乳が全国へ広がり、1950年にはパン・おかず・ミルクをそろえた「完全給食」が実施されるようになります。

そして1954年(昭和29年)には「学校給食法」が制定され、農林水産省の資料によれば「適切な栄養の摂取による健康の保持増進を図ること」が給食の目標として掲げられました。

支援物資に頼っていた戦後まもなくの給食が、少しずつ国の制度として整えられていった時代です。

出典:全国学校給食推進連合会/文部科学省/農林水産省/nippon.com「給食考(前編)子供の命をつないだ歴史」

③ 脱脂粉乳から、牛乳へ

昭和の給食を思い出すと、牛乳のことが浮かぶ人もいるのではないでしょうか。

けれど、戦後の給食で使われていたのは、今のような牛乳ではなく脱脂粉乳でした。

1958年(昭和33年)ごろから、一部の地域で国産牛乳への切り替えが始まります。ただし、全国一斉に変わったわけではありません。

1964年(昭和39年)には年間を通じた牛乳の供給が行われるようになり、1972年度(昭和47年度)には牛乳と脱脂粉乳の割合が97対3になりました。

十数年をかけて、給食の飲み物は少しずつ牛乳へ移っていったのです。

出典:文部科学省/Jミルク/日本乳業協会

④ パン中心から、ごはんもある給食へ

「給食の主食といえばパン」という時代も、少しずつ変わっていきます。

1970年度(昭和45年度)には国内産米を使った給食の実験研究が始まり、1976年(昭和51年)には米飯が学校給食の制度上、正式に位置づけられました。

昭和40〜50年代には、コッペパン中心だった給食にソフトめん、揚げパン、カレーライスなども加わり、献立が多様になっていったことが農林水産省の資料で紹介されています。

実際の献立の一例として、埼玉県学校給食会の資料には1975年(昭和50年)の献立として「バターロールパン、沖あみチーズロールフライ、八宝菜」が、公益財団法人学校給食研究改善協会の資料には1979年(昭和54年)の献立として「ごはん、牛乳、がめ煮、ヨーグルトサラダ、チーズ」が挙げられており、当時の給食が主食・副菜とも多様だったことがうかがえます。

パン中心だった給食にごはんも加わり、主食の選択肢も少しずつ広がっていきました。

出典:文部科学省/農林水産省/埼玉県学校給食会「年代別献立レプリカの貸出し」/公益財団法人学校給食研究改善協会「学校給食の歴史」

1970年代の日本の小学校の教室で、机を向かい合わせにした給食時間に、子どもたちが配膳をしている生活情景のイメージ画像。実在する特定の献立・学校・食器の再現ではありません。
※当時の雰囲気をもとにAIで作成したイメージ画像です

⑤ 栄養を支えた、学校栄養士のあゆみ

パン・脱脂粉乳から始まり、牛乳やごはんへと広がっていった給食のメニューを、現場で組み立てていたのは誰だったのでしょうか。

全国学校栄養士協議会によれば、昭和39年(1964年)に学校給食共同調理場の栄養職員を対象とした設置費の補助制度が設けられ、翌昭和40年には単独校の栄養職員にも補助制度が広がりました。

昭和49年(1974年)には、「新国庫負担法」の成立により学校栄養職員が県費負担職員となり、給食の栄養管理を担う専門職としての位置づけが、国の制度としてはっきりしていきました。

この流れはさらに時代を下り、平成16年(2004年)の答申を経て、翌平成17年(2005年)4月には「栄養教諭」制度が正式に発足し、北海道・福井県・大阪府・高知県などで最初の栄養教諭が誕生したとされています。

献立を考え、栄養バランスを整え、地域や学校ごとの事情に合わせる。給食の裏側では、こうした専門職の制度が少しずつ整えられていきました。

出典:全国学校栄養士協議会「沿革」

⑥ 昭和から今へ、給食はどう変わったか

ここまでたどってきた給食の変化を、あらためて振り返ってみましょう。

戦後まもなくは、援助物資でとにかく子どもの栄養不足を補うための食事でした。学校給食法の制定以降は、栄養の摂取を制度として保証する仕組みへと整えられ、パン中心から牛乳・ごはんへとメニューの幅も広がっていきました。

農林水産省の資料によれば、令和の給食は地産地消がさらに推進され、地場産物の使用割合を平成26年度の26.9%から30.0%以上へ引き上げる目標が掲げられるなど、地域の食材を活かす方向へも進んでいるとされています。

文部科学省は平成27年(2015年)3月に「学校給食における食物アレルギー対応指針」を作成し、医師の診断にもとづく「学校生活管理指導表」の提出や、原因食品を除く・除かないという単純な対応を原則とすることなどを示しています。昭和の給食にはなかった、一人ひとりの体質に合わせる仕組みが、今の給食には加わっています。

不足を補うための食事から、栄養を整える制度へ。そしてパン中心の画一的な献立から、地域の食材・多様なメニュー・一人ひとりへの配慮を取り入れる給食へ。昭和の給食は、今の給食につながる大きな流れの、ちょうど中間地点にあった時代だったといえます。

出典:農林水産省/文部科学省「学校給食における食物アレルギー対応について」

懐かしい給食メニュー

コッペパン

給食のパンと聞いて、まずコッペパンを思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。

戦後から長く、学校給食の主食の中心だったコッペパン。農林水産省の資料でも、昭和の給食ではコッペパンが主流だったことが紹介されています。

昭和50年代に米飯給食が制度化されると、給食の主食にも少しずつ選択肢が広がっていきました。

出典:農林水産省

脱脂粉乳

牛乳が当たり前になる前、給食で飲まれていたのが脱脂粉乳です。

1946年(昭和21年)、東京・神奈川・千葉の3都県で試験的に始まった給食で使われ、その後全国へ広がりました。

なぜ脱脂粉乳だったのでしょうか。Jミルクの資料によれば、当時動物性たんぱく質が不足すると身長が伸びないというデータがあり、小麦粉だけでなく動物性たんぱく質を含むミルクも与えるべきだという提案から、脱脂粉乳の援助が決まったとされています。パン中心の献立に、たんぱく質を補う役割が期待されていたことになります。

Jミルクの資料には、22gの脱脂粉乳を180mlのお湯で溶かし、アルミ製のバケツで運んで杓子で配っていたという当時の提供方法も紹介されています。

今の牛乳とはずいぶん違う、昭和の給食風景です。

出典:全国学校給食推進連合会/Jミルク/日本乳業協会

クジラ料理

鯨の竜田揚げなどのクジラ料理も、昭和の学校給食を語るときに登場するメニューです。

今回確認できた資料では、昭和20年代ごろから40年代にかけて、鯨肉がたんぱく源として給食に使われていたことが紹介されています。農林水産省の資料によれば、当時は捕鯨業が盛んだったことも、鯨肉が給食に取り入れられていた背景のひとつだったとされています。

武蔵野市給食・食育振興財団が公開している資料には、昭和30年代後半の献立例として「食パン、くじらの立田揚げ、即席漬け、脱脂粉乳」が挙げられており、実際にクジラ料理が給食に登場していたことが確認できます。

実際に食べた記憶がある人なら、味や食感まで思い出すメニューかもしれません。

ただし、今回の調査では全国的な普及率や地域差について、公的な一次資料までは確認できていません。

出典:武蔵野市給食・食育振興財団「思い出の武蔵野学校給食」/週刊女性PRIME(二次資料)

揚げパン

外は香ばしく、砂糖をまぶした揚げパン。給食で楽しみにしていた人もいるのではないでしょうか。

東京都大田区には、昭和20年代なかごろ、区内の小学校の給食調理師が揚げパンを考案したとみられる、という伝承があります。

この話が明らかになったのは2004年(平成16年)。区民からの問い合わせをきっかけに、大田区が過去の資料を調査したことによるものと報じられています。

ただし、「大田区が唯一の発祥地」と断定できる資料までは、今回の調査では確認できませんでした。

懐かしい給食のメニューにも、こんなエピソードが残っています。

出典:東京新聞/大田区発表(内容は間接確認)

ソフト麺

「ソフト麺」という名前に、懐かしさを感じる人もいるかもしれません。

「ソフト麺」の正式名称として資料に記載されているのが「ソフトスパゲッティ式めん」です。

今回確認できた資料では、パンに使われる強力粉を原料とすることなどが紹介されています。

一方、「1965年に東京都で学校給食へ正式採用された」といった具体的な年代については、公的な一次資料で確認できなかったため、ここでは掲載していません。

出典:『丸善食品総合辞典』を出典とする資料(辞典原本は未確認)

ミルメーク

いつもの牛乳に混ぜると、ちょっと特別な味になるミルメーク。

発売されたのは1967年(昭和42年)。大島食品工業によると、栃木県学校給食会からの依頼を受け、子どもたちが牛乳を残さず飲めるように開発されました。

最初はコーヒー味。その後、1969年(昭和44年)にいちご味、1972年(昭和47年)にココア味が加わりました。

さらに1978年(昭和53年)には、テトラパック牛乳に対応する液体タイプも開発されています。

学校給食から生まれたミルメークは、現在も製造・販売されています。

出典:大島食品工業「ミルメーク公式サイト」

1980年代の日本の小学校の教室で、給食当番の子どもたちがトレーにパンや牛乳を並べて配膳している生活情景のイメージ画像。実在する特定の献立・学校・食器の再現ではありません。
※当時の雰囲気をもとにAIで作成したイメージ画像です

同じ時代をもっと振り返る

給食の牛乳と同じ頃、家庭に瓶牛乳を届けていた仕組みについては瓶牛乳配達の記憶でもたどれます。

昭和の給食と同じ1970〜80年代に発売された商品は、発売年順にまとめた年表ページや、1970年代のページ・1980年代のページでもあわせて確認できます。

あなたが食べていた給食は?

生まれ年を選ぶと、あなたが小学生だったころの目安の年と、当時のお菓子・おもちゃ・文房具・遊びのページへのリンクを表示します。

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これ覚えてる?

学校・地域・年代によって内容は異なります。あなたの記憶と重なるものはありますか?

  • 牛乳は瓶に入っていましたか? それとも三角パックでしたか?
  • 給食当番の白衣や帽子、マスクを覚えていますか?
  • 机を向かい合わせにして食べた記憶はありますか?
  • お盆や食器は、どんな形・素材だったか覚えていますか?

出典・注意事項

本ページの内容は一般的に知られている情報をもとに構成しており、学校・地域・年代による違いがあります。個別の商品・出来事について出典が確認できたものは、各商品ページ側で出典を明記します。

ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。