すごろくとは?盤双六と絵双六の違い
公開日:2026年9月6日

※AIによるイメージ画像です
お正月、こたつを囲んでサイコロを振り、駒を進めて盛り上がった記憶はありませんか。
「すごろく」と呼ばれるこの遊びが、どこから伝わり、どのようにお正月の定番として定着していったのか、そして今の日本語にどんな言葉を残しているのかを、日本玩具博物館などの資料をもとにたどります。
盤双六(ばんすごろく)とは?盤の上で駒を進める遊び
日本玩具博物館公式サイトによれば、すごろく(盤双六)は盤上ゲームの一種で、中国やインドに起源を持つ世界的な遊びです。中国から貴族社会へ伝わり、江戸時代に庶民の間へ広がっていったとされ、マス目の入った盤の上に駒を置いて進める形式が特徴です。

実際どう遊んだのか。白黒15個ずつの石を進める陣取り
江戸ガイドの記事によれば、盤双六は具体的には盤の上に白と黒それぞれ15個の石(駒)を並べて置き、2人のプレイヤーがサイコロを振って出た目の数だけ自分の石を進めていくという遊び方でした。先に自分の石をすべて相手側の陣地に入れた方が勝ちというルールで、盤上のどこに自分の石を集めるか、相手の石をどう避けるかという駆け引きが遊びの中心になっていたといいます。
同記事によれば、勝敗の大部分がサイコロの出目という「偶然」に左右される点が、この遊びを賭博として広まらせた大きな要因だったとされています。技術や経験だけでは勝ち切れない、運の要素が強く絡む遊びだったからこそ、金品を賭けたくなる誘惑も強かったのだと考えられます。
なぜ「双六」と書くのか。名前に隠された最高の出目
由来・語源辞典の解説によれば、「双六」という名前そのものにも、この遊びらしい由来があります。盤双六では2つのサイコロがどちらも6の目を出すことが最高の出目とされ、この「2つの六」という意味から「双六」という名前がついたとされています。「双」は「二つ」を、「六」はサイコロの最大の目である「6」を指しているということです。
遊び方や起源だけでなく、名前の一文字一文字にまで、サイコロの出目にまつわる願いが込められていたということになります。今では「振り出しに戻る」という言葉だけが日常に残っていますが、「双六」という漢字表記そのものにも、かつての遊び手たちが最高の出目を待ちわびた気持ちが刻まれているのです。
「絵双六(えすごろく)」との違いに注意
すごろくには、盤の上で駒を動かす「盤双六」と、絵の中を振り出しから上がりへ進める「絵双六」の2種類があります。同博物館によれば、絵双六は江戸時代初期に出現し、僧侶が仏教の教義をわかりやすく教えるための「仏法双六」が始まりとされているといいます。よく似た名前ですが、遊び方の仕組みは異なる、別々に発展してきた遊びです。
なぜ盤双六は廃れ、絵双六が生き残ったのか
Wikipediaの解説(『日本書紀』『続日本紀』を典拠とする記述)によれば、盤双六はサイコロの出目という偶然の要素が大きく、古くから賭け事の道具として使われてきました。そのため、689年(飛鳥時代)には持統天皇によって、754年には孝謙天皇によって、盤双六を禁じる命令がそれぞれ出されたと記録されています。1000年以上前から、為政者が繰り返し取り締まらなければならないほど、盤双六には根強い賭博の温床としての側面があったことがわかります。
同解説によれば、盤双六は19世紀初頭の文化・文政年間ごろには衰えていき、その後はもっぱら絵双六が「すごろく」としてイメージされるようになったとされています。賭博性を帯びた盤双六に対し、絵の中を振り出しから上がりへ進むだけの絵双六は、金品をやり取りする仕組みを持たない、家族や子どもが安心して楽しめる遊びでした。この「賭け事にならない」という性質こそが、絵双六がお正月の家族遊びとして生き残った大きな理由の一つだったと考えられます。
お正月の定番になったのは「絵双六」だった
日本玩具博物館公式サイトによれば、お正月の家族遊びとして広く定着していったのは、盤双六ではなく絵双六でした。江戸時代には「道中双六」や「役者双六」などの絵双六が、婦人や子どものお正月遊びとして一般化したといいます。明治時代になると機械刷りの技術によって全国に広まり、少年少女雑誌の付録としても人気を集めたとされています。手軽に印刷・複製できるようになったことが、絵双六がお正月の家族遊びとして定着する後押しになったと考えられます。
同館によれば、この転機は明治37〜38年(1904〜1905年)の日露戦争とともに、手作りの錦絵(版画)が姿を消し、印刷技術の進歩によって双六も大量生産の時代を迎えたことと重なっています。さらに大正時代に入ると、少年少女向けの雑誌が急増し、その新年号の付録には「必ずといってよいほど双六がついた」とも紹介されています。手作りの一点物だった双六が、雑誌という大量に届けられるメディアの付録になったことで、より多くの家庭のお正月に届くようになっていったのです。
「廻り双六」と「飛び双六」。2つの進み方
東京学芸大学附属図書館の展示解説によれば、絵双六の遊び方には大きくサイコロの出た目の数だけコマを進める「廻り(まわり)双六」と、出た目と同じ数字が振られたマスへ直接移動する「飛び双六」の2種類があったといいます。単に1マスずつ進むだけでなく、サイコロの出方次第で大きくコースを飛び越えられる「飛び双六」という遊び方があったことは、あまり知られていない事実かもしれません。
同館の解説では、具体的な作品例として、京都から東京までの59駅と脇道12駅を蒸気機関車で巡る「東海道上り列車鐡道壽語六」が紹介されており、運賃や駅間の距離まで書き込まれていたといいます。また、「まゝごと」や「おにごっこ」といった当時の子どもの遊びを31マスにわたって描いた「新版春遊子寳雙六」、子どもの行動を「善」と「悪」に分けて19の場面で描いた「教育善悪子供双六」など、旅行案内や遊びのカタログ、道徳教育まで、双六というフォーマットは実に幅広い内容を伝える手段として使われていたことがわかります。
遊ぶだけでなく、眺めて楽しむ絵でもあった
国立国会図書館の解説によれば、江戸時代の絵双六は当時の人気絵師によって描かれ、遊ぶだけでなく観賞する対象にもなっていたといいます。マス目の中の絵は単なる目印ではなく、それ自体が美しい浮世絵のような作品として楽しまれていたのです。同館の資料には、歌川国芳や歌川豊国、渓斎英泉といった、今も名前の知られる浮世絵師が手がけた絵双六の作品名や、海老屋林之助・和泉屋市兵衛といった当時の版元名も具体的に記録されており、単なる子ども向けの遊具ではなく、当代一流の絵師が手がける出版物として扱われていたことがうかがえます。
同館の解説によれば、絵双六の絵柄は大きく「道中・名所を描いたもの」「歌舞伎役者や武士などの人物を描いたもの」「出世や商いといった社会風俗を描いたもの」の3つに分けられるといいます。中には子どもには少し難しい内容を含むものもあり、大人と子どもが一緒になって楽しむ、世代を超えた遊びだったこともうかがえます。単純にサイコロを振って進むだけでなく、マスに描かれた絵を見ながら知らない土地や職業を想像するという、もう一つの楽しみ方があったといえるでしょう。
実は「宣伝」でもあった。企業と結びついた双六の一面
アドミュージアム東京(ADMT)のコレクション解説によれば、江戸時代から明治時代にかけては「広告絵双六」と呼ばれる、企業や商店が非売品として配る宣伝用の絵双六も広く作られていました。遊んでもらう中で自然に商品や店の名前を覚えてもらうという、今でいう販促グッズのような役割を担っていたといいます。
同館の解説では、その具体例として大丸呉服店が配布した「令嬢成長双六」が挙げられています。女の子が成長していく過程のマスの中に、大丸で扱う商品が次々と登場するという、物語性を持たせた作りになっていたといいます。同館によれば、こうした広告絵双六は、道中双六や出世双六といった伝統的な形式から、買物案内双六や少年少女成長双六といった、より実用や宣伝を意識した形式へと発展していったとされています。
お正月に家族で楽しんだ絵双六の中には、単なる遊びとしてだけでなく、当時の商店が知恵を絞った宣伝の手段としての一面も隠れていたことになります。今でいうノベルティグッズや会員特典に近い発想が、すでに江戸時代の商店の間で実践されていたことになります。
サイコロを振り、一喜一憂した時間
「1回休み」や「振り出しに戻る」のマスに止まって悔しがったり、あと少しで上がりというところで足踏みしたりと、絵双六はサイコロの目ひとつで盛り上がる遊びです。お正月に親戚が集まったときや、家族でこたつを囲んだときに広げた、紙に絵が描かれたすごろく(絵双六)の記憶は、今でも懐かしく思い出す人が多いのではないでしょうか。
今も使う「振り出しに戻る」は、すごろくが生んだ言葉
imidas(集英社)の慣用句辞典によれば、物事を最初の状態からやり直すという意味で使われる「振り出しに戻る」という言葉は、すごろくで采(さい、サイコロ)を振り始める出発点に戻るという意味から生まれたとされています。すごろくの盤面や紙の絵そのものは、今の生活からはほとんど姿を消してしまいましたが、「振り出しに戻る」という言葉は、仕事や勉強のやり直しを表す表現として、今も日常会話の中に生き続けています。
遊びとしての絵双六に触れたことがない世代でも、この言葉を口にするたびに、知らず知らずのうちにすごろくという遊びの記憶をなぞっているのかもしれません。一つの遊びが姿を変え、盤上の言葉が日本語の慣用句として定着していったという事実は、すごろくが日本の生活文化に残した、目に見えにくいけれど確かな足跡だといえるでしょう。
サイコロを振って盤上を進むという遊び方の骨格自体は、紙の絵双六が家庭から姿を消したあとも別の形で受け継がれています。1968年に日本で発売され、今も版を重ねているボードゲーム「人生ゲーム」は、出自としてはアメリカ生まれの別系統の商品であり、絵双六とは直接の系譜関係にはありませんが、「振り出しから上がりへ、出た目の数だけ駒を進める」という基本構造そのものは、江戸時代の盤双六・絵双六から続く発想の延長線上にある遊び方だといえます。紙の双六がお正月の風物詩としての役割を終えたあとも、その骨格だけは形を変えて今のボードゲームの中に生き続けているのです。
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あなたが子どもの頃のお正月遊びは?
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これ覚えてる?
学校・地域・年代によって内容は異なります。あなたの記憶と重なるものはありますか?
- すごろくで遊んだ記憶はありますか?
- どんなすごろくを持っていましたか?
- 誰と一緒に遊んでいましたか?
出典・注意事項
本ページは、日本玩具博物館公式サイトの企画展紹介ページ「『双六』と『歌留多』」をもとに構成しています。個別の情報については、各見出しに出典を明記しています。お正月の家族遊びとして広まったのは絵双六であり、盤双六とは起源・遊び方が異なる別の遊びであることを、同資料に基づき明確に区別しています。
ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。