電報とは?モールス信号から慶弔電報まで、電報の歴史と仕組み
公開日:2026年9月10日 更新日:2026年9月12日

※AIによるイメージ画像です
電話がまだ珍しかった時代、遠くの家族や友人へ急ぎの知らせを届けたのが「電報」でした。
モールス信号(もーるすしんごう)を使ったこの通信手段が、いつ生まれ、どのように使われ、なぜ今も慶弔電報として形を変えて残っているのかをたどります。
電報とは?モールス信号を文字に変えて届ける通信手段
電報とは、送りたい文章をモールス信号(トンとツーの組み合わせによる符号)に変換して電気信号で送り、受信した側でふたたび文字に直して配達する通信手段です。
NTT西日本の公式コラムによれば、日本国内の電報サービスは、明治2年(1869年)の電信線開通を経て、東京・横浜間で始まったと伝えられています(サービスの開始時期については資料により1869年・1870年の表記差があります)。手紙より速く、しかし電話のように直接話すのとは違う、この「文字で届く速達メッセージ」という性質が、電報を長く特別な通信手段にしていました。
電話も郵便配達網も鉄道もまだ十分ではなかった明治初期、遠くの土地との間で情報をやり取りする手段は限られていました。電気の力で瞬時に符号を送り、離れた場所で再び文字として読めるようにするという電報の仕組みは、それまでの飛脚や船便による通信にはなかった速さを実現していました。
全国へ広がった電信網
東京・横浜間で始まった電報サービスは、その後急速に全国へ広がっていきました。電信線の敷設が進むにつれて、都市部だけでなく各地の郵便局や電信局を通じて電報を送受信できるようになり、遠く離れた土地との連絡手段として定着していきました。
当時はまだ電話も郵便網も鉄道も本格的に整備される前の時代であり、電報は最先端の通信手段として、官公庁や基幹産業を中心に重宝されていたと伝えられています。人と物が今ほど速く移動できなかった時代、離れた土地の出来事を数時間のうちに知ることができるという速さそのものが、大きな価値を持っていました。
電信網が全国に張り巡らされたということは、それまで飛脚や船便に頼るしかなかった遠隔地との連絡が、「即日届く」という感覚に変わったということでもあります。官公庁や基幹産業が全国の出先と迅速にやり取りできるようになったことは、近代化を進める当時の行政・経済活動を支える基盤のひとつになっていったと考えられます。
電報はどうやって送られたのか?申し込みから配達まで
電報が相手先まで届くまでには、「申し込み」「送信」「配達」という3つの段階がありました。ひとつずつ見ていきます。

申し込みはどこで行った?
電報を送りたいときは、郵便局や電信局の窓口へ出向くか、電話で申し込む方法が使われていました。電文を伝えると、局番なしの番号で受け付けたオペレーターが内容を確認し、送り先の電信局へ電文を転送します。
支払いの方法も時代とともに変化しており、電話で申し込んだ後に郵便局の払込票で料金を支払う方式が使われていた時期があったと伝えられています。電文はカタカナと一部の記号だけで書かれ、文字数(濁点・空白・句読点を含む)に応じて料金が決まる仕組みでした。
申込用紙が足りなくなるほどの混乱もありました。NTT西日本によれば、1923年(大正12年)の関東大震災の際には、箸袋や古新聞の切れ端に鉛筆書きで電文を申し込む人もいたと伝えられています。どんな紙にでも文字を書きつけてでも、遠くの家族へ無事を知らせたいという思いが伝わってくるエピソードです。
電信局ではどう送信した?
パワーアカデミーの解説によれば、受け付けられた電文は電信技師によってモールス信号に打鍵(だけん、キーを叩いて信号を送ること)され、電線を通じて電気信号として送られました。
受信する側の電信局では、電磁石の力を使って符号を紙テープに記録し、電信技師がその符号を聞き取り・読み取りながら文字に書き起こしていきました。
日本国内では、1870年頃にブレゲ指字電信機(針の動きで文字を示す方式)が、翌年頃にはモールス式印字電信機が導入されたと伝えられ、遠方まで電文を送る際には、複数の電報局を経由して人の手で中継されることも珍しくありませんでした。
受信後はどう家庭へ届けたのか
文字に書き起こされた電文は、配達人によって家庭や職場まで直接届けられました。突然の来訪は、多くの場合、急ぎの知らせを意味していました。
郵政博物館の資料によれば、電報配達へ自転車が試用されるようになったのは明治25年(1892年)頃、東京郵便電信局が「電報配達上自転車試用之件」という伺いを出したことに始まると考えられます。
明治39年(1906年)には配達用自転車を赤く塗ることが公達で正式に定められました。
電話が一般家庭に普及していなかった時代、遠方の家族の安否や仕事上の緊急連絡など、一刻を争う用件を伝える手段として、電報は重要な役割を担っていました。玄関先で電報を受け取る瞬間、何が書かれているのかとどきどきした経験を持つ人も少なくないはずです。
「ハハキトクスグカエレ(母危篤すぐ帰れ)」「サクラサク(入学試験合格の知らせ)」といった、限られた文字数の中に切実な思いや喜びを凝縮した電文は、電報を象徴する言い回しとして今も語り継がれています。
NTT西日本によれば、合格を伝える電文には大学ごとの言い回しもあったといい、奈良にゆかりのある大学に伝わる「ダイブツノメニナミダ(大仏の目に涙)」のような、地域や学校にちなんだ表現も使われていたと紹介されています。同じ「合格を知らせる」電文でも、送り先によって少しずつ違う言葉が選ばれていたことになります。
出典:NTT西日本公式コラム「明治2年から現在まで…NTT西日本の電報担当社員が語る【電報の歴史】」/郵政博物館「自転車を用いた配達」/NTT西日本「電報150年の歴史を振り返る『電報今昔』」
電報と電話、何が違ったのか
電報と電話は、同じ「電気による通信」でありながら、性質は大きく異なっていました。電話はその場で相手と会話でき、伝えたいことをすぐに伝えられる一方、家庭に電話が引かれていなければ利用できず、初期には交換手を介して回線をつないでもらう必要もありました。
これに対して電報は、相手が不在でも配達員が自宅や職場を訪ねて文字として届けてくれるため、電話を持たない家庭にも確実に用件を残せるという強みがありました。声ではなく文字として形に残ること、そして受け取った後も読み返せることも、電報ならではの特徴でした。
声で伝える電話、文字で残す電報。ふたつの通信手段は、互いを補い合いながら、電話が一般家庭に広まるまでの時代を支えていたといえます。急な入院の知らせ、遠方の家族の出産の報せ、あるいは入学試験の合否連絡など、電報が運んでくる知らせは人生の節目に関わることが多かったと考えられます。
「結果だけが先に届く」という電報特有の性質は、手紙とも電話とも違う独特の伝わり方でした。電話が普及した後の社会と比べると、電報しかなかった時代は「相手が今どうしているか、直接声を聞いて確かめる」という手段そのものがなかったことになります。
それでも遠方の家族の安否や重要な知らせを確実に届けられたのは、配達員が実際に足を運んで手渡すという、人の手を介した確実さがあったからだといえます。
祝電・弔電の始まりと、利用のピーク
電報は文字だけを送る仕組みではありませんでした。NTT西日本によれば、1928年(昭和3年)7月には東京・大阪間で写真を電気信号として送る「写真電報」の実験が成功し、同年11月には天皇即位式の様子を撮影した写真が、この仕組みを使って全国へ送られたと伝えられています。文字だけでなく画像までも電気信号に変えて送るという発想が、すでに昭和のごく初期に実現していたことになります。
NTT西日本の記録によれば、1934年(昭和9年)には年賀電報が、1936年(昭和11年)には慶弔電報(祝電・弔電)の取り扱いがそれぞれ始まり、電報は緊急連絡だけでなく、特別な場面で気持ちを伝える手段としての性格も持つようになりました。
電報の利用は昭和30年代に大きく伸び、1963年(昭和38年)には年間9,461万通という利用のピークを迎えたと記録されています。この時期は、家庭への電話の普及がまだ進んでいなかったことも、電報が広く使われた背景にあったと考えられます。
慶弔電報という利用が加わったことで、電報は「一刻を争う緊急連絡」だけでなく「特別な日をお祝いする、あるいは悼む手段」としても定着し、日常の実用と儀礼的な役割の両方を一つの仕組みが担うようになりました。9,461万通という通数からは、電報がこの時期の日本で非常に広く利用されていたことがうかがえます。

電話の普及とともに、日常連絡の役割を終える
1970年代以降、家庭用電話の普及が急速に進むにつれて、日常的な緊急連絡の手段としての電報の役割は少しずつ薄れていきました。電話であれば、その場ですぐに声で用件を伝えられる。文字を電文にして送り、配達を待つという電報の仕組みは、緊急連絡の主役の座を電話に譲っていくことになりました。
それでも電報という仕組み自体がすぐになくなったわけではなく、モールス信号による通信業務は、NTTグループにおいて1999年まで続けられていたと伝えられています。携帯電話の普及が進んでいた平成の世の中でも、明治から続くモールス信号の仕組みが、水面下では現役で使われ続けていたことになります。
電話はその場で声を届けられる一方、「文字として形に残る」「配達員が実際に届けに来る」という電報の性質そのものは電話には備わっていません。電報の日常利用が減っていった背景には、こうした性質の違いから、緊急連絡という同じ役割であれば、より速く直接やり取りできる電話が選ばれるようになっていったという事情があると考えられます。
今も残る、慶弔電報という文化
日常の緊急連絡という役割を電話に譲った後も、電報はなくなりませんでした。結婚式や葬儀といった特別な場面で気持ちを形にして届ける「慶弔電報」として、現在もNTT東日本・西日本や民間の電報サービスを通じて利用されています。
NTT東日本の案内によれば、現在の料金は「メッセージ料(1枚あたり)」「台紙・付属品料」「オプションサービス料」に消費税を加えた構成になっており、差出人の氏名・住所・電話番号も文字数に含まれるなど、かつての電文文化を引き継ぐ部分と、時代に合わせて変化した部分の両方があります。
文字と紙という「形に残る」性質、そして手間をかけて言葉を届けるという特別感が、電話やメールが当たり前になった今でも、電報という手段を残し続ける理由になっていると考えられます。明治2年にモールス信号で始まった通信の仕組みは、姿を変えながらも、今も慶弔の場面で言葉を届け続けています。
出典:NTT西日本公式コラム「明治2年から現在まで…NTT西日本の電報担当社員が語る【電報の歴史】」/NTT東日本「電報お申込みサイトD-MAIL 料金の仕組み・サービス概要について」
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学校・地域・年代によって内容は異なります。あなたの記憶と重なるものはありますか?
- 電報を受け取った記憶、または家族が電報を受け取る様子を見た記憶はありますか?
- 結婚式や葬儀で祝電・弔電が読み上げられた記憶はありますか?
- 電報配達人が家に訪れたときのことを覚えていますか?
出典・注意事項
本ページは、NTT西日本公式コラム「電報の歴史」「電報150年の歴史を振り返る『電報今昔』」、NTT東日本の案内ページ、パワーアカデミーの解説記事、電報の送り方に関する専門サイト、郵政博物館の記事をもとに構成しています。個別の情報については、各見出しに出典を明記しています。電報サービスの開始年については資料により1869年・1870年の表記差があるため、断定を避けて記載しています。
ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。