二宮金次郎像はなぜ学校にあった?薪を背負う少年の像
公開日:2026年9月6日 更新日:2026年9月11日

※AIによるイメージ画像です
通学路や校庭の片隅で、薪を背負いながら本を読む少年の像を見かけたことはありませんか。
なぜ、各地の学校に同じような少年像が置かれるようになったのでしょうか。「二宮金次郎像」と呼ばれるあの像が誰をモデルにしているのか、なぜ学校に置かれるようになったのか、そしてなぜ昭和の初め頃に広まっていったのかを、国立国会図書館や文化庁の資料をもとにたどります。
二宮金次郎像とは?江戸時代の人物・二宮尊徳をモデルにした像
二宮金次郎像は、江戸時代後期の人物である二宮尊徳(にのみやそんとく)の少年時代をモデルにした像です。「金次郎」は尊徳の幼名にあたります。薪を背負いながら本を読み、歩きながらでも学ぼうとする姿が、この像の共通した特徴です。
実はこの像、単なる歴史上の人物の記念像ではありません。勤勉に働きながら学ぶという生き方そのものを子どもたちへ示すために、多くの学校が設置してきたものでした。それがなぜ、どのようにして学校の風景の一部になっていったのかを、ここからたどっていきます。
二宮尊徳とはどんな人物だったのか
二宮尊徳は、現在の神奈川県小田原市にあたる足柄平野の農家に生まれ、幼くして両親を亡くし、家も一時傾いたと伝えられています。そこから自ら働いて田畑を立て直したことが、後の人生の出発点になりました。
報徳博物館によれば、尊徳は奉公先だった小田原藩家老・服部家で独自の金融互助制度を作った才覚を藩主・大久保忠真に認められ、野州桜町領(現在の栃木県真岡市)の財政再建を任されて成功させました。晩年には幕臣にも取り立てられ、日光神領をはじめとする幕府領の再建にも従事し、その手腕を発揮した村は生涯で600か村に及んだとされています。
こうした農村復興の取り組みは、単なる精神論ではなく、田畑からの収穫や支出を細かく記録し、倹約によって生まれた余力を次の開発へ回すという、実務に基づいた立て直しの方法だったと伝えられています。少年時代の苦労だけでなく、大人になってからのこうした具体的な功績の積み重ねが、尊徳を「勤勉によって身を立てた人物」として語り継がせる土台になったと考えられます。
後世、尊徳は「勤勉」「倹約」「努力によって身を立てた人物」の象徴として語られるようになりました。ただし、像として広く知られる「薪を背負い本を読む少年」の姿は、尊徳本人が実際にどのような少年時代を送ったかを写実的に記録したものというより、後世に作られた象徴的な表現である点には注意が必要です。像を理解するうえでは、尊徳という人物そのものの伝記よりも、その姿がどのような意味を託されて広まっていったのかが重要になります。
なぜ「薪を背負って本を読む少年」なのか
今の感覚だと、歩きながら本を読むのは少し危なっかしく見えるかもしれません。ただ、この像で強調されていたのは歩き方そのものではなく、体を動かす仕事と学問を両立させる生き方でした。遊ぶ時間を惜しんで学ぼうとする少年の姿は、勤勉・努力・向学心といった価値観をひと目で伝えられる図像として、教育の場になじみやすかったと考えられます。
甲賀市立油日小学校の紹介ページによれば、昭和前期の教科書では、金次郎が「親孝行」「勤勉」の良い例として繰り返し取り上げられていたといいます。実在の人物の生涯そのものよりも、「働きながら学ぶ少年」という分かりやすい一場面に姿が集約されていったことが、像として全国へ広まっていく土台になったといえます。
なぜ学校に二宮金次郎像が置かれたのか
甲賀市立油日小学校の紹介ページによれば、昭和前期には卒業生や地元住民が金次郎像を学校に贈ることが流行しました。当時の教科書で金次郎が「親孝行」「勤勉」の良い例として紹介されていたことに加え、国が金次郎の勤勉・倹約の精神を教育の象徴としたかったためではないかとも紹介されています。
公益財団法人福武財団の研究助成成果報告書でも、当時の教科書には「親孝行」「兄弟仲良く」「仕事に励む」「学問」「勤勉」といった徳目の実例として金次郎が取り上げられていたことが確認されています。
地元の大人たちが自ら費用を出し合って像を贈ったという広がり方も、この価値観が単に国から押し付けられたものではなく、地域社会の側にも共有されていたことをうかがわせます。国が定めた教育方針と、卒業生・地域住民による寄贈という2つの動きが重なったことが、金次郎像が多くの学校で見られるようになった土台になったといえそうです。
出典:甲賀市立油日小学校「そうだったのか、二宮尊徳像」/公益財団法人福武財団 教育文化活動助成成果報告書「二宮金次郎像の再考」

昭和初期、全国へ広まった二宮金次郎像
国立国会図書館のレファレンス協同データベースによれば、日本で最初に金次郎像が小学校へ置かれたのは1924年(大正13年)、愛知県豊橋市の前芝小学校だったとされています。その後1925年(大正14年)以降、銅像による設置が各地で広がっていきました。
同資料によれば、銅器の生産で知られる富山県高岡市では1928〜29年(昭和3〜4年)頃から金次郎像の製作が始まったとされ、像の分布は北は北海道から南は福岡まで確認でき、沖縄でも商店や会社の前に置かれた例があったといいます。
設置が広まった時期の背景については、資料によって説明の力点が異なります。公益財団法人福武財団の報告書は、昭和天皇の即位に関する記念行事(御大典)が行われた昭和3年ごろを一つのきっかけとして挙げつつ、実際に設置数が急増したのは尊徳の没後80周年にあたる昭和10年、生誕150周年にあたる昭和11年、皇紀2600年の記念行事が各地で行われた昭和15年ごろだったと指摘しています。特定の人物や事業が一斉に全国へ像を配ったというよりも、複数の記念の節目が重なるたびに設置の動きが盛り上がり、昭和10年代にかけて広がっていったとみるのが実態に近いようです。
陶器の産地としても知られる岡山県では、1933年(昭和8年)2月11日に伊部小学校へ備前焼の陶製像が設置されたのを一つの契機に、銅像より安価な陶製の金次郎像が県内の小学校へ広まっていったことも、福武財団の報告書で確認できます。銅像・陶像という素材の違いには、地域ごとの産業や経済的な事情も関わっていたことがうかがえます。
出典:国立国会図書館 レファレンス協同データベース「小学校によく置かれていた二宮金次郎の像は、いつ頃から広まったのか」/公益財団法人福武財団 教育文化活動助成成果報告書「二宮金次郎像の再考」
戦時中、金属製の像が姿を消した理由
1941年(昭和16年)8月、金属類回収令が公布されると、全国の学校に置かれていた銅製の金次郎像も金属供出の対象となっていきました。
タウンニュースの記事によれば、神奈川県横須賀市の旧走水小学校では、1942年9月ごろ、日の丸の旗を掲げた金次郎の銅像が校長の引くリアカーで運び出される様子が記録写真として残されているといいます。同じ三浦半島の逸見小学校・豊島小学校などでも、銅像が石造の像へ置き換えられた例が報告されています。回収された金属が当時の他の金属資源と同様に軍需生産へ用いられたとされていますが、金次郎像の金属が具体的にどのような形へ加工されたかまでは、同記事でも明らかにされていません。
全国の学校で盛んに設置されてきた金次郎像だけに、金属回収の対象になった学校の数も少なくなかったと考えられます。1943年には学生服の金属ボタンまでもが回収の対象になったと伝えられており、金次郎像の供出は、身の回りの金属がことごとく戦争へ動員されていった時代の変化の一場面でもありました。
銅像を供出したのちの学校の多くは、戦時中あるいは戦後になって、陶器製や石製の像に建て替えて設置を続けました。素材が変わっても、勤勉の象徴としての金次郎像そのものを再び校庭へ置こうとした学校が少なくなかったことがうかがえます。
石・陶器・青銅・コンクリート、素材の違う金次郎像
どれも同じ金次郎像に見えて、実は素材は一様ではありません。文化庁「文化遺産オンライン」によれば、二宮金次郎像には花崗岩(かこうがん)製の石像が多く残っている一方、陶器製や青銅製のもの、比較的新しいコンクリート製のものも存在するといいます。
こうした素材の違いは、単なるデザインの好みではなく、これまで見てきた時代背景とも重なっています。戦前に銅像として作られたもの、金属供出ののちに陶器や石で建て替えられたもの、戦後になって新しくコンクリート製で作られたものなど、一体一体の像が、それぞれの学校が歩んできた歴史を映す記録にもなっているといえます。同じ「薪を背負う少年」という姿でありながら、作られた時代や地域によって素材や表情が少しずつ異なっているのも、この像の面白さのひとつです。
戦後、二宮金次郎像の意味はどう変わったのか
戦後、学校教育の方針は大きく見直され、金次郎像が体現していた「勤勉・倹約」という価値観を国が前面に押し出す形での教育は行われなくなっていきました。それでも、金属供出を経験した学校の多くが陶器や石で像を建て直したように、地域や学校にとって金次郎像は、国の方針とは別に、校庭の風景として、また卒業生や地域住民の思いが込められたシンボルとして残り続けてきた面があります。
戦前は国が教科書を通じて示した「模範」としての性格が強かったのに対し、戦後は特定の思想を押し付けるための像というより、その学校が積み重ねてきた歴史そのものを示す記念碑のような存在へと、少しずつ位置づけが移っていったと考えられます。金属供出という一度像を失う経験を経てもなお、あえて陶器や石で建て直した学校が多かったこと自体が、金次郎像が単なる道徳教育の道具にとどまらず、学校の歩みを物語る存在として大切にされてきたことの表れといえるでしょう。
近年は像の設置状況が変化した学校もあるといわれていますが、その具体的な理由・時期・全国的な規模については、今回の調査で公的機関・信頼できる報道機関の資料から直接確認できる範囲を超えており、本ページでは扱っていません。
校庭に立つ像が残した記憶
雨の日も晴れの日も、同じ姿で立ち続ける少年の像。校庭や正門などに置かれた像は、意味を知っているかどうかにかかわらず、日々の学校生活の中で自然と目に入る風景の一部でした。
大正時代に一つの小学校から始まった小さな取り組みが、昭和の初めにかけて各地の校庭へ広がり、戦争という時代の波にさらされながらも、多くの学校が姿を変えてでも残そうとしてきた——薪を背負う少年の像は、そうした一つひとつの学校の歴史を静かに物語る存在でもあります。
生涯で600か村もの農村復興に携わったと伝えられる二宮尊徳自身の歩みからすれば、校庭の片隅に立つ小さな石像は、その業績のごく一部を象徴的に切り取ったものにすぎません。それでも、遠い昔の農政家の功績よりも、「薪を背負って本を読む少年」という一場面の姿の方が、難しい歴史の話としてではなく、毎日すれ違う校庭の風景として、長く子どもたちの記憶に残ってきました。
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- 通っていた学校に二宮金次郎像はありましたか?
- どんな素材の像でしたか?
- 像について先生や大人から聞いたことはありますか?
出典・注意事項
本ページは、報徳博物館、国立国会図書館レファレンス協同データベース、公益財団法人福武財団の研究助成成果報告書、文化庁「文化遺産オンライン」、甲賀市立油日小学校の紹介ページ、タウンニュースの記事をもとに構成しています。個別の情報については、各見出しに出典を明記しています。全国への広がり方については資料により説明の力点が異なるため、特定の数字や人物名を断定的に扱わず、確認できた範囲の記述に留めています。金属供出後の具体的な転用先、および近年の像の設置状況の変化については、信頼できる資料で直接確認できる範囲を超えているため扱っていません。
ページ内のイメージ画像はAIによるものであり、特定の人物・場所・年代を再現した実際の写真ではありません。